甘えと癒し。



先日、こんな(↓)記事を書きました。
この記事に対していただけたコメントを読んでいたら、
ふと、「甘える」ってどういうことなのだろう?
ということが、すごく気になりだしました。


とりあえず、辞書で調べてみると…
「甘える」の意味は、こういうものでした。

1 かわいがってもらおうとして、まとわりついたり物をねだったりする。甘ったれる。「子供が親に—・える」
2 相手の好意に遠慮なくよりかかる。また、なれ親しんでわがままに振る舞う。甘ったれる。「お言葉に—・えてお借りします。 

デジタル大辞泉 小学館   


この記事を書いた時、
私の頭の中にあった「甘える」というのは、
相手の好意に遠慮なくよりかかって、
おしゃべりやスキンシップの
相手をしてもらい、
心も身体も相手にくっついて、
そしてそれを喜んで受け入れてもらうことで
自分の心をめいっぱい癒そうとする、
ということだったと思います。


念のため、整理しておきますが、
私がここでいう「甘える」とは、
決して、自分がラクしたいがために
本来自分のやるべきことを、
女子的可愛いさや人間的未熟さなどをダシにして、
あえて誰か他人に押し付けようとする
「他人に甘えるな!」
なんて文脈で使われる「甘え」の
ことではありません。
(そういう女子を「あざとかわいい」
などといってもてはやす文化は、
どうも私は馴染めません💦)

話を戻します。

自分の心を癒したくて、
自分の心を相手にくっつけていこうとする。
それが私にとって、誰かに「甘える」ということで、
その手段が
「おしゃべり」や「スキンシップ」なのです。

それができるのは
私がその意図をもって、そのタイミングで
相手の懐に入っていくことが、
その相手にとっても嬉しいことだ、
相手もそれを待ち望んでいるのだと
九割方の確信を持てた場合のみです。


では、
そういう相手、タイミングを
どう見極めていくのでしょう?

私の脳内には、日頃から
「周りなんて気にしない素直な自分」と
「置かれている環境等々を踏まえ
あるべき論を繰り広げる自分」
がいます。

そのニ者が脳内でいつも対話しているのです。  

もちろん、素直な自分はあるべき論者の自分に
我慢しいられることもたくさん。
でも、あるべき論者の自分が言うことに
従った行動をしたから享受できるメリット
もたくさんあります。
逆に素直な自分が意見して、
あるべき論を補強していくこともあります。

素直な自分が、あるべき論者の自分に共感することも、
そしてその逆も、もちろんあるのです。
二者は対立しているわけではないのです。

だから、あるべき論者の自分は、
素直な自分との主張が180°異なっていても
素直な自分の主張のことも絶対否定はしません。
素直な自分が我慢を強いられる時も
そうだね、そう思うよねって、労うんです。

だから、素の自分も
絶望せず、心の中に住み続けられるんです。


生活、仕事など、
いろんな環境の中で生まれる
様々な人との関わりの中で、
自分がどういう言動を取るのかは、
脳内に共存する二者がいつも
対話をしながら決めています。

自分の理想としては、
基本あるべき論者の自分が前面に出て、
素直な自分は、大勢に影響のないところで
ちょいちょい顔を出す程度でいて欲しいところ。
でも実際は、素直な自分が、
あるべき論者の取りたい行動を
邪魔してしまうことも多々あります💦

そうやって
充実した時間を過ごせた自分に
満足したり、失敗を反省したりしながら、
日々過ごしているのです。

そんな日々の中で、
この人は相性が合うなと感じるのは、
素直な自分を小出しにした時に
それをガシッと掴んで
もっともっとと引き出してもらえた時です。

そういう時は、
さほど無理しているわけではないのに
なぜか、楽しかったり心が温かくなったり
何か心強く感じたりします。

そして、そこからさらに心の距離が
縮まっていくかどうかのポイントは、
やりとりの端々に、
相手からもっと近くに来ていいよ!
私もあなたと一緒にいたいよ!
素のあなたを感じたいのよ!
そういうサインが出てくる場合です。

たぶん、このサインって
どちらが先ということはないのでしょうけれど、
人によって、取りたい距離感って
ホント色々で、互いにサインを出しながら
それぞれのちょうどいい
距離感を見つけていくのだと思うのです。

サインを出し合い、
距離が少しずつ縮まっていくなかで、
ある程度になると
これ以上、近くなるとちょっとキツイな。
そう感じる人が、実は大半です。

それがたぶん、
お友達、仕事仲間のラインなのだと思います。
きっと考え方や生活文化の違いを
感じてしまい、これ以上関わりが深くなると
どちらかが、慣れ親しんだ自分の習慣や考え方を
意思に反して手放さなければならない
そんな空気を感じ始め、 
息苦しくなってしまうのです。


そんな時は無理しません。
その距離感で留め、
自立した大人同士として、
適度に心地良い人間関係を築くのです。


また、親しくなれるかどうかと大前提として、
関わりの中での
give &takeのバランスがちょうどよくて、
自分と相手の利害が
苦痛を感じるほどぶつかることがほぼない
ということもあります。
そのバランスが取れない場合も
いずれ片方がすり減り、
負担を感じた方から自然と離れ
プライベートで関わることが
なくなっていくのだと思います。

いずれにせよ、
育ってきた環境が違うのですから、
素の自分になって心地良さを感じられる
相手というのは、
そうそう現れないものだと
私は思っています。


ところが、
まれにふと現れるんですよね。
一緒にいると安心できて、
自然とどんどん素の自分が出てくる。
気を遣っているわけじゃないのに心地いい。
価値観の違うところも
息苦しくなくて、
違いも含めて受けとめ合えるかもしれない
そんな感覚を覚える人が。

そんな人から、
もっとこっちにおいでっていうサインが
出始めたら、
素の私は、それはもうあっさり
吸い寄せられていってしまうでしょう。
それほど素の自分を欲しがってくれる人の
引力に身を任せる心地良さというのは、
半端ないものなのです。

そういう人と親しくなれて、
互いを慈しみ合うことが
互いの癒しになると両者が確信した時、
日々のしなければならない
諸々の活動からふと離れ、
互いが2人きりの世界に没頭できる時間を
作りたいと願うのでしょう。

そして、それが叶った時、
互いが相手の好意に遠慮なくよりかかって、
思う存分まとわりついて、
おしゃべりしたり、
スキンシップを求め合い、
心も身体も相手にくっついて
それを受け入れ合って、
互いの心をめいっぱい癒し合う。
そういう幸せな「甘え合い」の 
時間が生まれるのかなと思うのです。


とってもとっても貴重な時間。
私にとってはもう、
ほぼほぼなくて当たり前の時間です。

でも、世の中何が
起こるかわからないですからね。

そんな時間を求めてやまない
素の自分も大切にしつつ、
あるべき論者の自分と対話を重ねながら、
また日々を積み重ねていく。
結局はそうするしかないんですよね。

こんなふうに
noteに長文をしたためるのも、
たとえ行動に移せなくても、
心の中にいる素の自分が
「本当はしたいこと」を、
大切に温めてあげるための
手段なのかもしれません。

今日も今日とて、
そんな私にお付き合いいただき
ありがとうございました😊












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