意見の相違

 若い頃、意見が異なる人に出会うと「議論をどんなに尽くしても、互いが納得できるに至らない事があるのは何故なんだろう?」と悩んだことがある。最初は「議論を尽くせば納得した合意に至るはず!」と思っていたが、そうならない事が何度もあった。徹夜で議論してもなおである。

 互いに納得できない理由を深く深く追求する方向に議論を進めると一つの解に至った。価値観の違いである。何を最も「大事」にしているのか?いくつかの大事があったときの「大事の優先順位」の順番もだ。これらが異なると納得には至らない。「俺が大事だと思っている事をお前も大事だと思え!」これは横暴である。つまり、「大事の摺合せは無理」なのである。しかし、互いの「大事」を互いに「理解」さえできれば、合意できる内容の選択とレベルを調整する議論は可能であり妥協の方向も見えてくる。調整が進めば合意形成に到達することができる可能性は非常に高くなる。仮に合意に至らなくても相互の理解は深まり、相手の言う事の理解は可能になる。

 つまり、「相互に納得した合意」を目指すのではなく、相互の違いを認めた上の「相互理解に基づいた合意」を目指すのがポイントである。相手の言い分を納得する必要はない。しかし、相手の立場(価値観)を理解することはできるはずである。「納得」ではなく「理解」に焦点を当てるのが大事である。しばしば納得と理解の混同に陥り、話が堂々巡りになっているのを散見する。

 一つ、価値観の違いの実例を挙げよう。Aさんは飲み会の幹事を引き受けてくれることが多く 人望があった。しかし、あるときに大喧嘩になった。それはBさんが飲み会の幹事をしていたときで、一次会が終わり、次はどうしよう?という話になったときであった。Bさんは二次会を用意していなかったのであるが、そもそも二次会をやることは予め決まっておらず二次会の参加人数も不確定な状況で である。Aさんは「二次会の準備がない」ことに激怒し、その矛先は役目を終えて帰ろうとしていたB幹事に向いていた。参加者のAさん以外の全員は「面倒な幹事を引き受けてくれたBさんには感謝しかなく、非は全く無い」という認識でAさんをなだめたが、Aさんの激怒の矛先は、今度は全員に向かってきた。

 Aさんは「幹事たるもの二次会三次会どころか参加者がゼロになるまで、何某かの店の候補を見つけておくべきであり、それまで、途中で幹事が離脱するなど有り得ない」という幹事が大事にすべき価値観を持っていた。Aさんの考えでは「幹事はn次会の用意と最後迄の参加が当然の義務」なのである。この様な幹事に対する価値観を持っていたAさんが幹事のときの飲み会はホスピタリティに溢れていて非常に評判が良かった。しかし、「予定していた会が終わったら幹事の役目は終了」という幹事観の、Aさん以外の人達とは「当たり前」の内容が異なるが故に上記の騒動になったのである。Aさんの当たり前をBさんにも要求したのである。なぜならば「それが当たり前」だからである。

 Aさんの幹事に対する価値観を聞き出せたのは後日だったので、それまでは、その飲み会に参加していなかった人達を含めて「なんで飲み会評判の良かったAさんが暴れたの?」という「?」が山のように溢れ、界隈はザワザワした。後日、「当たり前の幹事像」に関する議論をシラフのときに行うのであるが、AさんとAさん以外の人達の、幹事が大事にすべき価値観は全く平行線を辿り歩み寄りはなかった。しかし、幹事に対する価値観の違いを知れば「Aさんが幹事のときの飲み会の素晴らしさ」と「二次会がないと暴れるAさん」の両方を理解することができ、山のように溢れた「?」は消滅した。幹事が持つべき価値観を相互に納得は全くできなかったが、理解はできるようになった。

 様々な価値観は心の中の奥底に住み着いていて、本人は当たり前と思っている。感覚的な思考は価値観に基づいて組み立てられるので、意見が異なるときには、奥底に隠れている価値観の違いに注目すべきである。

 自分の意見と違う人に出会ったとき、恐怖心や疎外感を感じる人は少なくないのではないだろうか?私もそうであった。しかし、この事に気付いてからは「とんでもない意見を言う人」に出会ったとき「どんな変わった価値観を持っているのか?」を探り出せる楽しみにワクワクするようになった。希少価値観ハンターである。

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