見出し画像

差別と区別の違いを考えてみる

最近はやれ差別だのどうのなど、そういう事を言う輩が目立つように感じます。
しかし本当にそれは「差別」なのでしょうか?そもそも差別とは?
差別についてちょっと考えてみたNoteです。


差別と区別の定義

何が差別で何が区別か…その為には差別か区別、またはその両方を「定義」する必要があります。
辞書において区別は「種類や性質の違いによって分けること」と書いてあります。
差別は「正しい理由のなしに区別すること」といった旨の事が書かれています。
私は差別と区別の違いは「物理的に問題があるか否か」だと考えています。

区別とは

例えば視覚障害者(より厳密に言えば視力が一定以下の者)は車を運転する事が出来ません。これは現代の車が視覚を重視した設計だからです。
コウモリのように聴覚だけでも安全に運転できる車が開発されれば、運転出来る人が増えるかもしれませんが。

ともかく目が見えない、目が悪い人は性別や人種、思想等がどうあれ、「安全に運転が出来ない視力」という物理的な事実は変わりません。
「安全に運転出来ない視力」を持つ者を運転させる事は危険であり、だから彼らの運転を禁止する…これは「区別」といえるでしょう。

差別とは

差別とは「物理的な問題が無いにも関わらず、不当に扱う事。」だと考えています。

例えば日本で車の免許を取得する場合、免許取得に必要な条件を満たしていれば、どんな人でも免許を取得出来ます。それは人種や性別等は「免許取得に必要な条件」とは関係無く、「物理的な問題」が無い…あるいは無視出来るからです。
「肌の色が違い」や「なんか日本人っぽくない顔」事だけを理由に免許の取得を認めなかったら、それは差別になるでしょう。

「物理的な問題があるか否か」を差別の定義に使用した場合、全世界で通用すると考えています。どんな国だろうと物理法則は同じですからね。
しかし「物理的な問題」は重要な問題を見落としています。それは各国における「価値観の違い」を無視する事になる点です。

価値観の違い

ジェンダーレストイレが日本に出来た時、インターネット上では反対意見が多く見られました。
「今まで通りの男女共用トイレがあるからいらない」とか「性犯罪の温床になる」とか、とにかく色々です。
私自身、外国のジェンダーレストイレで、女性が男によって個室に無理やり入れられそうになっている映像を見た事があります。この映像がフェイクでは無い場合、海外では実際に「ジェンダーレストイレ内での犯罪、犯罪未遂」が発生している事になります。そして反対意見がこれだけ多く出るという事は、日本でも同じような事件が起こる危険があると、多くの人が認識しているのでしょう。

しかし「物理的な問題があるか否か」を差別の定義に用いた場合、ジェンダーレストイレへ反発している人たちは差別に加担している事になりかねません。
それは男女が同じトイレを用いる事に「物理的な問題」が無いからです。

当たり前の話ではありますが、全ての男性が女性に性犯罪をする訳ではありません。「男が性犯罪をするかもしれない」という理由だけで男性を公共の場から追い出す事は出来ず、もし行なったら男性差別となるでしょう。
それはトイレにおいても同じ事が言えるでしょう。

「トイレと公共の場は違う」と言う方もいるかもしれませんが、「似たような事例がかつて存在しました。人種によるトイレの区別です。

白人用・有色人種用

アメリカか南アフリカか、それ以外か混同しているか…詳細は覚えていませんが、かつて人種間によって使用できる公共施設は異なっていました。

白人用と有色人種用に分けられた水飲み場や公共プール。
法律により白人以外の立ち入りが禁止された海水浴場。
もちろん公衆トイレも人種別に分けられていました。

今でこそ「人種差別」的な政策やルールに思えますが、それは当時を生きていない我々だから思える事です。

差別には「負の循環」があります。
差別されると良い職に就けなかったり、教育不足等から犯罪を起こしやすくなったり、正しい知識が身につけられない為に病気になりやすくなります。それがまた差別を助長し、悪い循環が発生します。

当然の話ですが、有色人種だから病気になりやすい訳でも、犯罪を犯しやすい訳ではありません。人種がどうあれ、貧困と教育不足な状況では、正しい知識を得られず犯罪を犯しやすくなってしまうのです。

「男が女に暴行するかもしれないから、トイレを男女別にするべき。」という意見は「黒人が白人に暴行するかもしれないから、トイレを人種別にするべき。」と言う意見と根本的には同じなのです。
「必ず全ての男性が女性に性的な暴行をする」訳では無い以上、「物理的な問題の有無」のみを差別の基準とした場合、男女別トイレは差別的になってしまう問題を孕んでいます。

価値観の違いは差別を内包する可能性がある

「価値観の違い」とは時に物理的な理屈をも凌駕する力を持っています。
しかし当然ながら、各地の価値観を重視すると差別も残る可能性も十分あり得ます。

現代日本人が「トイレは男女別にするべき」と考えるように、「学校教育は男女別にするべき」や「職場は男女別にするべき」と考える国があってもおかしくはありません。
そしてその国で差別され負の循環に陥っている人々…仮にB人としましょう。
このB人が犯罪を犯いやすい傾向があるから「トイレ等をB人とそれ以外に大別するべき」とした場合、B人への対応は「差別」なのか、それとも「価値観の違い」に基づく各国で尊重されるべき「区別」にあたるのでしょうか?

各国の価値観の違いを一才認めないというのも一つの手段ではありますが、なんというか全体主義というか、現地の価値観をそこまで変えて良いのかと疑問に思えます。

差別の定義は一筋縄では無い

正直な話、差別の定義は非常に難しいでしょう。「物理的な問題があるか否か」を定義に採用した場合、男女別トイレは差別になる可能性があるからです。
もっともこれは「トイレは男女別」という価値観を現代日本人が持っているから起こる問題とも言えます。価値観が変わった未来では、ジェンダーレストイレに問題を感じる日本人は殆どいないかもしれません。
しかし過渡期にあたる我々にはたまった物では無いでしょうし、実際に犯罪も横行するでしょう
しかし一度価値観が変わればなんとも思わなくなります。

もし大昔の人類にとって「女性が鼻を露出する行為」が性行為を誘う行為だったとしても、現代日本人は鼻が露出しているからといって性行為を連想はしませんし、鼻の露出を理由に性的な暴行も発生しないでしょう。
価値観が根本的に変わるという事は、文字通り180度社会や認識が変化する事なのです。


もちろん「公衆トイレの問題において、人種差と性差を一緒くたにするべきでは無い。」という考えもあるでしょう。
しかしまずは自分の考え、意見を出してみる事が大切なのでは無いでしょうか?
それが間違っているのか正しいのか、当時は間違っているとされていたが未来で正しいとされるのか……ひとつ確かな事は様々な意見を自由に出せる環境は私にとって過ごしやすいという事です。

それと「考えを変える」事自体は「負け」や「恥ずかしい事」ではありません。
過ちを認められない方が恥ずかしいですし、無益ですからね。


ちなみに私としてはトイレは男女別のと、いわゆる誰でもトイレの併用で良いんじゃないかと思います。要は今のままで問題なし。
もし日本人の価値観が変わる場合、誰でもトイレが大きくなって行くでしょうから、今無理やり男女別トイレを廃止する必要は無いと思います。


最後に私の中で暫定的な「区別」と「差別」の定義を書いて終わりましょう。

区別
物理的な問題の有無で分ける事。

差別
物理的な問題が無いにも関わらず、不当に扱う事。
(要改善・特に現地の価値観と相反する場合への対処。)


読みにくい文章だったかもしれませんが、ここまで読んでいただきありがとうございました。
色々な意見が見たいので、思った事をコメント欄に書いてもらえると嬉しいです。
それではまた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?