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笑いに欠かせない「ボケ」の存在

 落語は笑いの芸能なので、登場人物にちょっと抜けた、いわゆる「ボケ」の存在は欠かせない。だが、その描き方は東西で異なるのだ。

 上方の代表は喜六だ。友だちからは喜公(キーコ)と呼ばれる。兄貴分の清八とコンビで登場することが多い。


 桂枝雀の「船弁慶」は、清八が喜六を納涼の舟遊びに誘いに来るところから始まる。女房が怖くてためらっていた喜六がようやく腰を上げたその時、女房が帰ってくる。この女房、近所では「雀のお松」「雷のお松」と呼ばれ、喜六が敵う相手ではない。


 家に入ったお松は、喜六がしゃがんでいるのを見つける。「また働いてまんのか。ちょっと手、休みなはれ。たまには休まなあきまへんがな。よう働いてやんな。朝から晩まで働くやないか」。次の瞬間、お松は喜六がよそ行きに着替えているのを見てとる。「ええべべ着て、あんたはどこ行くねん!」と怒り出す。

 ここまでで次のようなことが分かる。(1)喜六は仕事をしており、おそらく家で働く居職である(2)もちろん結婚もしているが、お松は働いてなさそうなので、喜六が一家の暮らしを支えており、それなりの収入があるのだろう。つまり一人前の大人なのだ。


 喜六のボケ加減というのは、仕事をし仲間うちの付き合いもするが、性格的に少し頼りないところがあるというところからくる。

 それでは東京の与太郎はどうだろうか。立川談慶によると、立川談志は与太郎について「彼はばかじゃない。非生産的なやつだ」と言ったそうだ。

 ただ、ばかには見える。仕事をしているように見えず(「大工調べ」では腕のいい大工だが)、「道具屋」では心配した伯父から縁日で古道具を売る商売を世話される。が、どれもうまく行かない。そもそも常識がないのだ。「錦の袈裟」では吉原行き、つまり女郎買いに行くのを女房に相談する。「金明竹」では店の前を掃除するように言われても水を撒くことを知らない。2階も掃除するように言われ、今度は座敷に水を撒いてしまう。

 つまり喜六が一人前なのに対して、与太郎はそうではない。近所や親戚の見守りの中で暮らしている。でも、人はそれぞれ違い、いろんな人がいる。それでも一緒に生きていく。そんな「共同体」の良さを思い起こさせる存在なのだ。

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