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「自分」のために書く。社会人になって「世界」はかわったかい?

この内容はあなたに向けて書きません。あくまで「自分」に向けて書いている内容です。

小学生の頃は、大人になったら凄い人になっていると思っていた。

●自由
●お金
●愛

全てを持っているのが、大人だと思っていた。

だけど年齢を重ねていくことに、夢は死んで、現実が追いついてきた。

だから今回は、夢が死んだ「自分」に向けて書いていこうと思う。

相手が存在しない「綺麗な文章」

学生の時に、好きな先生に言われたことを今でもたまにおもいだす。

「文章は人のために書くんじゃない。自分を保つために書くんだよ。」

卒業前の作文で何を書けば良いか全く思い付かず、先生に相談したら返された言葉だ。

「え?結局何書けば良いの?」と思ったのは、しょうがないことだと今でも感じる。

結局、友人の書いた内容をオマージュして作文を作ってしまった。

その時も、そして今も先生が何を伝えたかったのかよく理解できていない。

だけど、世の中に溢れている文字には対象が明確に決まってない内容が多くあるのはなんとなく気づいた。

かくゆう僕も、「相手がいない文章の書き手だ。」

伝えるべき相手がいない文章は、驚くほどつまらない。
自分で書いてて、自己嫌悪に陥ちいったことは、数えきれない。

下記のように、論理と感情の間に板挟みされている状況だ。

SNSもその傾向が強い気がする。

自己顕示欲と承認欲求の間で感情が揺れ動いている。

なんで、そんな中途半端な状態になるか考えると、意外と答えは簡単に分かる。

「醜いから」

本当に感情を乗せて、相手を思って書く文章は殴り書きのようになってしまうからたろう。

その点、相手がいない文章を書くのは楽だ。

綺麗に整えられた文章で、知りたいこと、共感して欲しいことを書くだけで良い。

しかし、これは気になってしまうと、どんどん自分にストレスが溜まってくるから困ったもの。

だから僕は、このnoteを「自分」に向けて書こうと思う。
誰かのためではなく、自分のために書くなら「醜い文章」を論理か許してくれそうだから。

もし、この文章を目にした人に唯一伝えることができることがあるとしたら、「自分に向けて書く文章は酷く拙く、醜い」ことだろう。

社会人になって「世界」は変わったか?

分かりきった見出しだが、あえて書こうと思ったことには理由がある。

先生が言った、「文章は人のために書くんじゃない。自分を保つために書くんだよ」という言葉について、深く考えようと思ったからだ。

僕にとって、「社会人になる=世界との関わり方が変化する」ことだと思っていた。

今まで、享受する側だった自分が、与える側に移動するんだと心のどこかで期待していた。

結果は、なんとなく理解してたように「そんなことなかった」

僕が変わったわけではなく、環境が変わっただけだった。

世界との関わり方が急激に変化したわけでも、自分の在り方に異変が生じることもなかった。

ただただ自分が存在していた。

だから、いつか内容を見返す「自分」に聞きたいことがある。

「自分の世界に変化は起きた?」

これに、答えて欲しい。

もしかしたら死ぬまで答えられないかもしれないし、明日答えられるかもしれない。

僕は、忘れっぽいから書いたことすら忘れているかもしれない。

それならそれで良い。

社会人1年目の5月。僕はこんな思いで生きていたことを残しておけることに満足している。

「自分」に向けて書く文章は、まるで、初恋の人を抱いたかのように気持ちかったことを感想として残しておくまる