日記 2021.2.15昼、新宿西口

東京に来て何日か過ぎた。今日は友人は朝から会社に出かけて行った。洗濯を回し、夕方から新宿でひとと会う予定があるので、出かける。雨が強くて濡れてしまった。今は新宿西口のルノアールにいる。XTCの『イングリッシュ・セツルメント』のブリティッシュで湿っぽいポップさはこういう日にマッチする。このアルバム、後半の方が若干だらけている感じがするが、なんだか一番聞いてしまうのだ。

備忘の意味もこめてこの数日のことを書いておこうと思ったが、長くなりそうなので二つに分ける。気が向いたら続きを書く。

2021.2.11——部屋について

Two people in a room / Positions are shifted (Wire - Two people in a room)


朝にマクドナルドで日記を書き、適当に時間を潰し、今回家に泊めてくれる友人に会う。友人宅は蒲田駅から歩いて20分くらいの住宅街にある。蒲田駅は東京の端っこにあって、多摩川をはさんで対岸はもう神奈川県だ。発着メロディは"蒲田行進曲"だった。つかこうへい原作・深作欣二監督の『蒲田行進曲』はいい映画だが蒲田はあまり登場しない。街並みを見てそのあたりに住んでいる人々の生活を想像。部屋に着く。

部屋に置いてあるのはきわめて少ない家具のみで、「いつでも夜逃げできそう」な感じ。友人の限りなく"虚無"でミニマルな日常生活を目の当たりに。部屋は住む人間の内面を反映するのかもしれない。いや、むしろ部屋のほうが強くて、ぼくたちのほうが「住んでる部屋みたいな人間」になってしまうのかもしれない。そういう相互作用について考えた。どちらにせよ、近代生活の「部屋」は自分の身体を最大に拡張した限界の単位だ。

ぼくの自室はモノに溢れており、ただでさえ狭い部屋を逼迫している。たしかにモノはストレスを強いる。部屋の動線の問題もある。だからシンプルな部屋に憧れるわけだが、それでもいつでも部屋は散らかしてしまうわけだし、結局はその雑然とした状態にこそ安心する。ぼくにとっての部屋は秘密のひきだしである。

その後、友人自慢のプロジェクター(友人の部屋で唯一の娯楽装置)で映画を観、昼食後とくに予定もないので駅近くでシーシャを吸い、鳥貴族で飲んでから帰る。

友人は大学院の同期で、大学院にだらだらと残ってしまったぼくとちがってキッチリ就職し、いまは新聞社で働いている。当時からよく飲んでいたし、お互いの人格や近況もなんとなくは知っているから、そんなに積もる話もないが、その感じが懐かしい。さっさと帰ってまた映画を観る。Amazon制作のヒーローパロディドラマ『ザ・ボーイズ』。悪趣味だがちゃんとシリアスで面白い。ちゃんと批評しようと思えばできる作品だがあまり脳が働いておらず単なる快楽で観る。自分じゃ観ないので新鮮だ。深夜バスで寝てないので快眠。友人はぼくが来るのに備えて布団を用意してくれており、何も不自由なく東京で生活できることになった。

2021.2.12——六本木と贈与

電話なんかやめてさ/六本木で会おうよ/今すぐおいでよ(岡村靖幸 - カルアミルク)

個人的にオンライン開催している『グラマトロジーについて』の読書会の参加者のみなさんと六本木で会った。たぶん六本木に来たのは初めてだと思うが、覚えていないだけだろうか。ぼくのような田舎者にとっては「六本木」という名前のバカバカしさにすでにちょっと笑える。駅の近くでチョロチョロ歩いただけだからあまり街を見ていない。

今回お会いしたのは、いずれも、読書会で毎回のように発言してくれる人たちで、年末にやった発表会でも発表してくれた人たちだ。個人的に話したことも何度かあるから、読書会の参加者というよりは友人という感覚だった(こういう出会いのために読書会をやったとすら言える)。ネット上では半年ほど隔週で顔を合わせているから、「オフ会」的な緊張感はなかったが、三次元空間に相手が存在し座標を占めていることがなかなか不思議な感覚だった。高校生のころ初めて筋肉少女帯のライブを観に行った時、ステージに現れた大槻ケンヂを目の当たりにして「オーケンってマジで存在してるんだな」と思ったことがあるが、それに近い。

ラーメン屋に行き、文喫に行き、シーシャを吸い、飲みに行く。話題は絶えず(ていうかぼくがベラベラ喋っていただけかもしれないが)、楽しい会合だったが、20時には店から出さされたので、素直に権力に従い、蒲田へ直帰。特に、東京の地理について詳しい人がいて、彼が東京の地形とその歴史について色々と教えてくれた。これはぼくの最近の関心とも合っていて、興味深かった。近いうち彼らと雑誌を作ると思う。

文喫とシーシャは、それぞれ、「左藤先生の分は出しますよ」という冗談とともに参加者のみなさんが奢ってくれたが、私はたしかに左藤先生であるからして、特に謙遜せず、もらえるもんはもらっておいた。

『グラマトロジー』読書会は(もともと自分の修練のために始めたものなので当たり前だが)はっきり言ってかなりぼくの負担が大きい読書会で、作業量も時間も相当にかかっている。二週間に一回、哲学書を30〜50頁読んで2時間近くかけて発表するのだ。事後的に見れば、つまりウェビナーの類が増えている最近から見れば、無料でやっているのは破格だと思うし、貧乏大学院生のぼくの生活という意味でも、多少なりとも金を絡めた方がいいというのは合理的な判断だ。このままでは「自己疎外」である。なぜマネタイズしないのかと人から言われることも何度もある(実際、今後なんらかの形で収益を得られるように変える可能性はある)。

が、しかしそもそも人文学の本義というのは、そういう「交換」あるいは「エコノミー(経済)」を脱臼させる試み、「贈与」への志向——それが「可能」かどうかはともかく——じゃないのかとぼくは思っているところがあって、マネタイズにはあまり乗り気ではない。哲学的経験は、時間と貨幣の等価性がねじ曲がるところから始まる。言い換えれば「気前の良さ」から始まる。デカルトは精神が自己自身を尊重することを「高邁(générosité)」と呼んだが、このジェネロジテには「気前のよさ」の意味もある。ぼくが論文や評論を書くためにかけた数十時間・数百時間は、仮にその結果雀の涙のような金を得ることがあるとしても、「等価交換」されるわけではないし、「時給」換算されないだろう。効率の度外視だ。

デカルト的「高邁さ」から思考を始めるべきである。実際のところ初めから収益化をしていたら、今回のような人との関わりはなかっただろうし、仮に収益化したら、ぼくの読書会は「労働」になってしまうだろう。結局のところぼくが憧れているのは、こういう「能率の予感」であり、「労働」ではなく、ひたすら読解し、ひたすら出力する「機械」になることである。読書はそういう「機械」に生成変化する試みだ。気高きタダ働き。徹底して効率的なタダ働き。

ぼくはマルクス主義者だしデリディアンだが、マルクスにもデリダにも怒られそうなことを言っている。(この思考回路は極めてブラック企業的なそれでもあるから、他人に強いだしたら「オワリ」だが…)もちろんエコノミーと贈与はそんな素朴な関係にはない。(ヘーゲル的な意味での)「労働」でないものはない。はたして固有性は交換され、値段がつき、売りに出される。だからぼくの生活はいっこう苦しいままである。——「常識」を確認しておくなら、研究者が一人前になるまでの期間、どのようにして食っていくかということについては、いろんなレベルで貧しいこの国家に頼れそうではない以上、もう少し業界全体で具体的に考えるべき問題だ。贈与を持続させるためには交換が必要なのだ。

そういうわけで、今回奢ってもらった文喫とシーシャは、ぼくの半年間の「贈与」が初めて「経済」になった瞬間と解釈したが、それ自体はもちろん等価交換ではなく、「気前の良さ」に対する「気前の良さ」の返答なのだ。ぼくが嬉しかったのは、この非対称性である。(そういうわけなのでこれからもいくらでも「贈与」をお待ちしています!

なお、「こういうとこにぼくが入っていいんですかね」と何度も言いながら入った文喫については、確かに置いてあるラインナップはそれなりにスゴいのだが、「こういうの最近多いよな」という感想だった。東京でも京都でもオシャレ本屋ブームがあるが、それと活字離れの関係をどう考えるだろうか。確かにその空間そのもののオシャレさに惹かれないといえば嘘にはなるが、しかし反感を覚えないというのも嘘になる。こういう場所に反感を覚えながら、かといって安易な反ファッションに陥らず、「文化」について考えるには、どうすればいいのだろうか。

さて、この次の日は、今回の旅の目的である『LEFT ALONE』を観に行ったり浅羽道明氏と朝まで論争したりとなかなかいい1日だったのだが、疲れたので続きはまた気が向いたら書く。


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