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個人主義≠利己主義 (1)

はじめに

 「日本は個人主義が進んで他人に気を配る人がいなくなったせいで凋落した」
「個人主義が社会の繋がりを破壊してダメにした」
などという非難を聞いたことがある。これが根本的に誤謬であると思うので私見を述べる次第である。書籍により別の定義がなされているかもしれないが、あくまで
「私が通常に個人主義という言葉を解釈したらこういう世界観を想像する」
ということを述べるわけである。
要するにこの記事の目的は、一般的に個人主義とは何かということを述べるのではなく、私が個人主義概念を構築した結果、及びそれを是認する私自身の思想の開陳といったようなところである。
 なおトップ画像がもちょもちょであるが、私のような下等生物(ヒト)風情が高等生物(ネコ)であるこのお猫様の思想を代弁するという驕った意図はない。昨今お猫様の画像を添えてあたかもお猫様のセリフのようにして自分の政治的主張を述べる愚昧が X に蔓延っている。傲岸不遜ここに極まれり。最大限の侮蔑を禁じ得ない。
 このミケぬこ様がもちょもちょしていて可愛いからトップ画像にしただけのことである。私の手を舐めてくれたし、撫でさせてくれた。

「個人」は誰か一人のことではない

 「個人主義とは自分の権利ばかりを考えて他者を排斥することだ」
と勘違いしている人がいると思うが、これは言葉の解釈を全く間違えている。個人主義というからには、個人を主体として考えるということであって、ここでいう個人は個人主義を主張するある人が自分だけを指して言うという解釈は不適当な曲解である。個人と言うからにはあらゆる「個人」のことを言っている。例えば個人主義を主張する人、私、貴方、内閣総理大臣、全ての人間それぞれのことを指しているのである。個人主義とはつまり、権利主体として集団ないし組織ではなく、個人を根源的な主体として考える思想のことだと解釈するのが妥当であろう。

誤りの例: 個人主義をよく分からずに主張する人

 「私は個人主義だから傍若無人な振る舞いをするのだ。」
というような尊大な態度を取る人間が稀にいると思う。あとで説明するが、これは個人主義が最も嫌う立場である。彼は個人主義と真っ向から対立する破綻した思想の持ち主であって、彼のような人間が個人主義を主張していることを理由に個人主義であるとして非難することもまた誤りである。

各個人の権利を守る

 個人主義なので、個人を主体としてその権利行使の良し悪しを考える。個人の権利は衝突するので、当然その際はどちらを優先すべきか合理的に判断する必要が出てくる。個人主義を主張するからには権利の衝突を問題として俎上に載せ、これを解決する具体的な手法を提示する責任が生じるということだ。
 私はこの際、公共の福祉の概念、及びマズローの欲求階層説によって判断するのが妥当だろうと思う。具体例を出そう。小島くんには眠る権利があり、大島くんにはギターを弾く権利がある。大島くんがギターを弾くことによって小島くんは眠れなくなるし、小島くんが眠るためには大島くんがギターを弾けなくなることになる。これは権利の衝突である。この際、ギターを弾くことは自己実現の欲求に当たるものであって、眠るのは生理的欲求に当たるものであるから、より基本的な欲求である睡眠を満たすことを優先すべきである。大島くんはギター演奏を我慢しなければならない。
 要するに個人主義を主張する人間に求められるのは、(自分以外を含めた)各個人が主張する権利を常に思いやる感性と、自分の権利行使がそれを侵害しないか、侵害したとして自分の権利行使が本当に優先されるべきであるか、常に考えられる性質である。
 個人主義とはつまり、強い自律と思いやりが必要になる思想である。さきほど例に出したように、傍若無人な振る舞いをするヒトは個人主義を実践していると到底言えず、ただの利己主義的な人間である。やはり利己主義的な人間を個人主義として非難するのは全く間違っている。

…つづく

私は小中学生のとき、運動会や合唱コンクールの時期になる度にクラスと対立する生活を送っていた(その後数日でまた仲良くなるのだが)。
 最終的に合唱コンクールで口パクを全力でやったら担任に
「声、出てたよ。」
と言われた。裏切ったような感じがし、しかし私の行為が正当だという確固たる信念もあり、複雑な気持ちだった。
さて、悪く言っても良く言ってもその "弁明" を次回するわけだが、これを例として個人主義的な社会における組織の特徴づけとは何か、ということを述べるつもりである。

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