訂正可能性とantifragile
訂正可能性とantifragile
訂正可能性の哲学の感想の第2段である。ここでは、ニコラスタレブが提唱するantifragile(反脆弱と日本語ではなっているのが、なんかしっくりこないのでこの文章ではantifragileでいく。)という概念と絡めて訂正可能性について自分の考えを述べることにする。結論から言うと、物事をantifragileの状態におく、自分自身がantifragileな状態となるためには訂正可能性を手に入れることが必要であると僕は考える。以下詳述する。
Antifragileとは何か?
Antifragileとは思想家、リスク・不確実性の研究者であるレバノン人のニコラス・タレブが10年程前に提唱した概念である。アイドルグループの名前ではない(antifragileでググって最初に出てきたのがアイドルグループだったのでびっくりした)タレブの最も有名著作は「ブラックスワン」だと思う。同名の書籍の中に詳しくこの概念は述べられているのでこちらも是非読んで欲しいのだけれど(本当に素晴らしい本である)、antifragile とはfragileの逆で衝撃やストレスを受けた際に以前より強く、より良い状況になることである。ここで、注意して欲しいのがAntifragile 衝撃やストレスに強いことではないということだ。それは彼の定義ではrobustである。つまり、程度はあるにせよストレスフルな状況がより望ましいのがantifragileである。
よくわからないと思うので彼がまとめた表を提示する。
お分かり頂けただろうか?多分殆どの人はタレブ流の本気なのかジョークなのかわからない表現でかえって混乱したのではないだろうか笑。
重要なことは脆弱の反対が頑強ではないということだ。脆弱なものは変動性や無秩序を嫌う。頑強はそれらに対してあまり影響を受けない。一方antifragileはむしろ変動性や無秩序から(中長期的に見れば)メリットを得る。
脆弱なものの例として石などの無機物があげられる。ストレスにはある程度耐えられるが、閾値を超すと不可逆的な破壊が起こる。頑強なものはもっと丈夫な鉄などをイメージしてもらえば良い。これはストレスにあまり影響を受けない。
一方人体を初めとした有機体はストレスを糧にして依然よりより良い状態になる。これは、ワクチンや筋トレをイメージしてもらえれば良いと思う。一
タレブはこのantifragileという言葉を作り出し一般に拡張し、どのような事象もこの三つ組のどれかに分類できると述べている。組織の例だと巨大な官僚機構は変動性を嫌い、間違い自体は滅多起こらないが起こった場合は悲劇的なものになる。一方でボトムアップの小さな組織(大きいとしてもその集合体は)は統治が行き届かないため、間違い自体は頻繁に起こる。一方で間違いが起こったとしても、その間違いは深刻なものではなく間違いが起こるたびに同じ間違いが起こらないように訂正が起こる為、全体としてより組織は強靭になる。
タレブは脆弱な巨大な官僚組織の例としてソ連を挙げる一方で、antifragileなボトムアップな(国レベルの)組織として連邦制のスイスを挙げている。
スイスの国土面積は九州程しかないが、そこに26個もの州が犇めいており、それぞの州がかなり強い自治権を持っている。
という状況であるらしい。僕自身もスイスには行ったことがあるのだけれど、実感と近い。また、タレブは以下のようにスイスのような体制を批判もしている。
さて、訂正可能性の哲学にもどる。
訂正可能性の哲学の一部の中心的な問いは以下のようなものであった。
僕はこのような家族的な団体に備わっている性質こそantifragilityだと考える。もう少し説明をする。
ある集団が結成し持続していくなかで変動性や無秩序つまりはストレスに晒されないことはない。このような状況のなかではストレスに対して頑強なだけでは足りない。むしろ、ストレスをバネに組織さのものが以前より強靭になっていかなければならない。なぜか?
集団が持続するなかで一度起きた危機と似たような危機は必ずまた訪れる。この時に1度目の危機でうまく集団を変化させておかないと、一見集団としては問題がなさそうでも、似たような次またはその次のストレスで集団は崩壊する。これはストレスが蓄積しているからだ。ストレスを糧に依然よりも強靭になる、つまり、必要なのはantifragilityである。
では、訂正可能性とantifragilityはどう繋がるのだろうか?
結論から言うと、どちらもほぼ同じ状態を表現しているのではないかというのが僕の考えである。ただ、考案者の2人は真逆の方向から得意で重要な同じ状態に気づいたのではないだろうか?
タレブは外側から観察をして、変動性からメリットを得る性質、fragileの反対のantifragileという状態があることを認識した。つまり外側からの認識である。
一方で東さんは家族のような不思議な集団が継続していくために必要な力について考えた。その力こそが訂正であり、訂正行える状態が訂正可能性である。これは言うならば内側からの認識である。
このように考えると2人がそれぞれの著書で述べていることはよく似ている。
ある集団が結成する。集団は継続するなかで、ストレスに晒される。ストレスに晒された集団内の個人はこのストレスに対処するために議論を始める。この様子を外側から観察すると「喧騒」に見えるはずだ。そして、議論の結果、集団内の個人のお互い関する認識と関係性が「訂正」され、集団は以前よりも強靭になる。これは、集団が訂正可能性を持っているとも言えるし、antifragileであるとも言える。
僕はこの2人の考えが正しいのではないかと直観的に考えている。というのも、このような性質は有機体である生命が持っている性質だからだ。我々の細胞におけるミトコンドリアを例にあげると、もともとミトコンドリアは細胞の構成要素でも何でもない外来種であった。それが、気がつくと関係性が「訂正」され、細胞の存続に必須は重要なメンバーになっている。そして、この訂正は、ゲノム、エピゲノム、免疫、超回復といったあらゆるスケールで起こっている(フラクタル性)。
全部詳しく述べていると話が別の方向にいってしまうのでここでは詳しく述べない。
大事なことはたくさんは「訂正」が有効であるから進化の過程でこのシステムが生き残っているということである。故に、しなやかで強靭な生命の性質を手に入れるためにこの手法をスケールアップして導入するのは自然だと思える。
一方、2人の認識で大きく異なることは組織がスケールアップした際にantifragility、訂正可能性を組織が持ち続けることができるのかという点であるように思える。
タレブは組織がスケールアップするということは非線形的な変換であり(超簡単に言うと元々の性質がある閾値を超えると、我々の目には突然予想とは大きく異なる形で変化しているように見えるということ)、antifragilityを持ち続けることは不可能であると断言している(故に上述するスイスの例がある。)
一方東さんは一般意思2.0のような工夫を用いればスケールアップしても訂正可能性を持ち続けることが可能ではないかと述べているように思える。
どちらが正しいかは社会実験を行なわなれば確かめることは不可能だろう。
個人的な意見としては、どんなトリックを使ってもサイズの限界はあるように思える。これは細胞から直接人体を作るのが不可能であるのと同じである。途中に組織→臓器→人体のように人間の集団においてもサブ組織が必要なのではないだろうか?(あまりに長くなったしまったので後編に続く)
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