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unknown risk

晴れてよし曇りてもよし富士の山
    もとの姿は変らざりけり

山岡鉄舟「剣禅話」(たちばな出版)p187

山岡鉄舟が、明治5年12月に「朝廷に奉仕する事」という、明治政府に仕える心意気をしたためた文章の最後に詠じている和歌。

先般、とある方からこの歌を教えて頂きました。

山岡鉄舟は明治維新の際に江戸幕府側の要人として西郷隆盛と渡り合い、「江戸城無血開城」の実現に貢献した人物。

また、剣術にも優れ、北辰一刀流を学び、明治維新後は一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。

さらに、若いうちから禅の修行を行い、「剣法と禅理」を深く思考した人物。

その彼が、明治維新後は明治政府に仕え、そして明治天皇に仕える修身御用掛の身分に。

彼の幕臣でありながら明治政府に勤めるという生き方に対して、その当時、外野からのそしり、やっかみがあたっという。

それに対して徳川家の忠と朝廷への忠にはなんら矛盾なく、それは、仏教の小乗仏教と大乗仏教の関係性と同じであると、この「朝廷に奉仕する事」という文章で語っているのは、なかなか興味深いです。

幕臣から明治政府に勤めるのは潔しとしない人も多かった中で、鉄舟の振る舞いは「転向」とい言われればそうなのかもしれません。

しかし、おそらく、その時々の権力構造を超えた、日本国のありようのとしての奉仕、「大欲」のようなものを鉄舟は考えていたのだろうか。

富士山の和歌は、雄大な風景の描写とともに、鉄舟のぶれない確固たる軸を感じます。

どんな天気でも、たとえ曇りで見えなくてもそこにはしっかりとした存在としての富士山が厳然としてある。

幕府の要人から明治政府に仕える事になっても自分の世に仕えるスタンスは何ら変わらない。

むしろ、世の人々がその時々でどちらが有利かという目先の利害という色眼鏡で見ようとするので、自ら見えにくくしている、よく見ようとしない。。

「俺は全く変わっていないぜ。」

そんな鉄舟の強烈なメッセージが、なんとも優雅な、そして雄大な和歌から伝わってくるようです。

本書は鉄舟の語る原文と訳文で構成され、「剣法論」、「修養論」
「維新覚書」の三部構成でなかなか読み応えのある本です。

さて、山岡鉄舟の想いとは少し離れてしまいますが。。

ここでふと思ったのは、富士山のような誰でも知っているものであれば、「曇りても」、ああ、あの辺りにこんな富士山があるんだなあと感じられます。

そこには、だれもが「富士山」と言えば、「ああ、あのような山ね」という共通認識、共通概念のようなものがあるからこそ「曇り」でも、その奥にみんながイメージできる共通のものがある。

しかし、富士山のようなものではなく、知られていないもの、でも大事なものというものは、雲に隠れてしまえばわからないのではないか。

また、鉄舟が語る「富士山」は曇りの中には「富士山」はなく、別の何かがあるのかも、いや本当に「富士山」は存在しているのだろうか、、

曇りの中は本当は誰にもわからないのでは。。

雲の中の富士山(新幹線から)。
「曇りてもよし」というより
やっぱり晴れた富士山見たかったなあ

そんな事を考えてしまったのは、以前にグローバルに展開している大手外資系保険ブローカーの方とお話しする機会があったときに、

「これからのビジネスは、いかに’unknown risk’を知るか(把握、察知)、そしてそれにいち早く対処するかににかかってくるかと思います」

と語った言葉が妙に引っかかっているからです。

いち早くunknownなrisk事象を見つけることが次のビジネスにつながる。。

しかし、’unknown’なことを’know’するとは。。

自己矛盾の世界。

「知らない」ことを「知る」ということは文法上、論理的にはムリな話しなのかもしれない。

曇りの中にある「富士山」を言い当てるようなもの。

いや、実は「富士山」と思っているけど実は別の山、さらには山でもない「何か」を見るということ。

見えないものは見えない、認識できないものは認識できない。

しかし、一旦事が起きた時に「これは想定外でした、、」と単純には言えず、「想定外」を『想定する』ということをしていかないといけない状況になりつつあるのかもしれない。

それは、シナリオプランニングであったり、リアルオプションによる確率的な事象であったとしても、それは想定された世界であり、どこまで行っても「知らない」、「想定外」という域には行きつけない。

曇りの中にある富士の山や、富士の山ではない別の何かかもしれないという’unknown’なものを見るということは可能なのだろうか。

とは言え、曇りも霧も絶えず流動的な事象なのでその先がちらりと見える場合もあり、その変化の「兆し」を感じるという事かも。

そんなこと考えてたら、金子みすゞの「星とたんぽぽ」の詩をふと思いだしました。

星とたんぽぽ

青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

金子みすゞ

見えないものをみる。

見えないものでも「ある」と感じる。

金子みすゞは「見えぬものでもあるんだよ。」と、優しく、しかし毅然として力強く断言している。

雲がかかっても、霧がかかっていても、
そこに「何かある」という確信をもって物事をみていくといことかなとも思いました。

なんだか禅問答のような感じになって来ました。

山岡鉄舟から「unknown(未知)だったら、既知になるよう自分で作ればいいじゃないか。ごちゃごちゃ考えるより行動だ!」と言われそうです。

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