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フィクションの力

アリストテレスとマーチン・ルーサー・キングとの関連性について。

アリストテレスの『詩学』では、フィクションの力についてこのように語っています。

「詩人の仕事とは、実際に起こった出来事を語るのではなく、起こるであろうような出来事を語ること」(光文社版p70)
「歴史家は実際に起こった出来事を語り、詩人は起こるであろう出来事を語ることにある」(同p70)

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詩人は、単なる事柄から、その人の思考や希望・願望が織り込まれた事項を表現すること。

「起こるであろう出来事」とは、作者にとって、「そうあってほしい状態」、「そうなっているはずの状態」「そうしたい状態」等の「あるべき事項」というもの。

それば推量の世界となり、現実と離れた状態、そして「将来」の状態とも言える。今を生きる私たちにとっては、そのような「あるべき事項」は、「今」とは違う将来の世界、現実から離れた虚構・フィクションの世界。

そこには現実感のない違和感を生じるかもしれない。その差異を埋めてみんなに納得性の高いものにしていく技法がまさに「詩作」を用いることなのかもしれない。

そして、その「あるべき事項」は、現実と離れた「フィクション」・「虚構」であるものの、そのフィクション自体が鮮明なイメージであり、共感性が高いものであればあるほどそのフィクション(あるべき事項)は現実になっていくという力があるのではと思いました。

「ストーリーを組み立て、語法を用いて仕上げる際には、できるだけ目の前に思い浮かべてみるべきである。こうすることで、行為が行われている現場に居合わせているように最も生き生きと克明に見ることができる」
(同p126)

フィクションから現実になっていく力の源は、それを念ずる人の意思であり、それを聞き手に分かりやすく、感動を与える表現の方法であり、そこに「詩学」の手法が応用されているように思いました。

そんなことを考えながら、マーチン・ルーサー・キングの演説を改めて読み直してみました。

https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2368/#jplist

「私には夢がある」(1963年)アメリカ公民権運動の中心人物として人種差別撤廃を訴えたスピーチ。その当時、白人と黒人が平等に過ごすことは、
ありえない話であり、まさに現実から遊離したフィクション・虚構。でも彼は「あるべき事項」として語っている。

”I have a dream” から始まる一節

「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である」
「いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である」

これは「夢」であったとしても、まさに「行為が行われている現場に居合わせているように最も生き生きと克明に見ることができる」ものであり、聴衆にも同じイメージがありありと共有できたのではないかと思います。

演説は、政治演説ではあるものの、一遍の詩のようです。

こうしてみると、社会的なムーブメント、そして企業のあるべき姿(理念)に向かっての理念浸透、組織開発にもアリストテレスの議論とつながっていると思いました。

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