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秋なのでたまには泣いてみたい

先日の3連休は心の栄養補給ということで、
「文豪たちが書いた 泣ける名作短編集」という本を読んでいました。

芥川龍之介の「蜜柑」、宮沢賢治の「よだかの星」、森鴎外の「高瀬舟」、菊池寛の「恩讐の彼方に」などなど。

本屋さんでなんだかとってもこの本が気になって。

晩秋から立冬にかけてのかさかさした空気のせいでしょうか。

本当に泣けました(汗)

でも、あまりにストレートな本のタイトル。

こんなおじさんが買うってなにかあったのかしらん、、と店員さんに思われたらどうしよう。。

どのレジも若い女性の店員さんで、あらぬ自意識過剰気味ドキマギ感の中でしたが、もうえいやっと買ってみました。

そう言えば、これらの小説は中学、高校で読書感想文を書かされたなあと思い起こしながらの秋の夜長の読書。

改めて、そこそこの人生経験を積んでみて再読すると、また違った感覚があり、タイトル通り目がうるうるしてきて、まだまだ自分も大丈夫かなと思ったり。

さて、それぞれの小説がずごく味わい深いものがありました。「蜜柑」を読んでせつなくなったり、「高瀬舟」を読んで悲しみの中にも一筋の希望があるなあという複雑な感覚を抱いたりと。。。

あれこれの感情を味わうことが出来ましたが。今回とくに印象深かったのは「恩讐の彼方に」でした。

有名な小説ですのでストーリーはあらかたご承知の方も多いかと思います。

主人殺しで逃亡中にも旅人を何人も殺害し、日々の糧を繋いた主人公が、悔悛の情にかられ、美濃一円の真言宗のお寺の浄願寺に救いを求める。

そのお寺の住職は主人公が自首しようとするところを、『仏道に帰依し、衆生済度のために、身命を捨てて人々を救うとともに、汝自身を救うのが肝心じゃ』と教化。
(以下、『』内は小説本文のそのものの文章です)

主人公は『ひたすら仏道修行に肝胆を砕き、、、行業は氷霜よりきよく、朝には三蜜の行法を凝らし、夕には秘密念仏の安座を離れず』修行を行う。

そして、了海という法名を得、自分の心が定まったことで、諸人救済の大願を起こし、諸国雲水の旅に出ます。

旅の途中、九州で山岳険しい鎖道で何人もの旅人が年間幾人も命を落とす状況を見て、了海は隧道(トンネル)を一人で、鎚の鑿で切り開こうと決意する。

しかし、周囲の村人たちは嘲笑しながら助けようとしない。

18年たってもひとりコツコツとトンネルを掘り進める了海。そこでようやく村人たちが動きこぞって手伝い始める。

そんな中、殺された主人の息子がようやく了海が犯人であると分かり、主人殺しの仇討ちを果たして、こちらも「お家再興」という大願を果たそうと了海に刃を向けようとする。

しかし、村人に、せめてトンネルが開通するまで待ってもらえないかとの嘆願にしぶしぶ承諾。

とはいえ、はやり納得できない息子は、夜、皆が寝静まったのを見計らい、了海の殺害すべくトンネルふかく入り込んで行く。。

そのシーンですが、
『ひそかに一刀の鯉口を湿しながら、息を潜めて寄り添うた。その時、ふと彼槌の音の間々に囁くがごとく、うめくがごとく、了海が経文を誦する声をきいたのである。そのしわがれた悲壮な声が、水を浴びせるように実之助(仇討ちを目指してきた息子)撤してきた。』

小説とは言え、深夜、一心不乱に経文を唱えつつ岩を穿つ了海の姿がリアリティを持って映像として浮かび上がってきて、圧倒されそうな感覚を覚えました。

そして、仇討ちを果たす目的でその地にとどまった実之助は、了海の大願を成就したいという真摯な姿に感銘を受け、実の父親を殺害した憎き相手にもかかわらず、自分も槌を振るい始める。

そして『敵と敵とが、相並んで槌を下した』形で、一緒にトンネルを掘り進める事になる。

21年目。敵と敵が相並んで黙々と槌を下していた深夜、岩が崩れ、『紛れもなくその槌に破られたる小さき穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。』。

そのトンネルが開通した瞬間は敵と敵の二人きり。

了海は大願を成就し、もうあとは思い残す事はないので実之助に仇を打ってもらうよう切り殺してもらうように願い出る。

そこで、実之助がとった行動とは、、

これは久しぶりに涙腺崩壊してしまいました。

私は国際情勢を語る知見も資格もないのですが、中東での悲劇を見るにつれ、数千年続くもつれた糸なので決して事態は単純ではないとは思いますが、大願のために『敵と敵とが、相並んで槌を下し』、恩讐の彼方にみえる世界というものはないのだろうか、、とも思ってしまいました。

秋の夜長に何か読書を、、と思っていらっしゃる方は「恩讐の彼方に」を改めて読んでみてはいかがでしょうか。


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