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十中観

陽明学者の安岡正篤の「百朝集」という本は折に触れて読む本の一つです。

正月に改めて紐解いてみましが、その中に安岡正篤の座右の銘とも言われる「六中観」(りくちゅうかん)というものがあります。
 
日々の心の持ち様を語っていますが、とても味わい深い「観」です。 

安岡正篤の百の箴言集。
先哲の教えを収集し安岡正篤風の味付けがされた名言集。
旧版を持っていました昨年ハンディ版が出たので買い求めました。
第58 六中観
一、死中・活有り(もう駄目だという状況の中にも必ず活路はある)。
二、苦中・楽有り(どんな苦しみの中にも楽は見つけられる)。
三、忙中・閑有り(どんなに忙しい中でも閑はつくれる。またそういう余裕を持たなければならない)。
四、壷中・天有り(どんな境涯の中でも自分独自の別天地を持つ)。
五、意中・人有り(尊敬する人、相許す人を持つ)。
六、腹中・書有り(頭の知識ではなく人間の土台をつくる書物を腹に持つ)。       
(「百朝集」p115)

そして、安岡正篤はこの「六中観」をこのように語っています。

私は平生ひそかにこの観をなして、如何なる場合も決して絶望したり、 仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないように心がけている。
(「百朝集」p115)

どれも味わい深い「観」ですが、特に四の「壷中・天有り」は「後漢書」方術伝・費長房の逸話を取り入れたもののようです。

本来の「壷中之天」は、別世界、別天地のことで、酒を飲んで俗世間を忘れることの例えとして使われているのが一般的。

しかし、安岡正篤の「六中観」での「壷中・天有り」は安逸な世界に浸るということではなく、精神のバランス、侵されない心の要塞、心がホッとする場所に行き、また現場(苦中、死中)に戻っていくということと解しています。

ここまでの域に行けるかどうかはさておき、なかなかの「観」ではないかと思っています。 

さて、最近読んだ田坂正志の「直観を磨く」という本の中に、「深く考える技法」のひとつに、『一つの「格言」を、一冊の「本」のように読む』。そして、「その格言を加筆・修正する」というものがあります。

自分の気に入った格言を、自分なりに加筆・修正していくことは、
自分自身の体験に照らして行うものであるため、単なる「文献知性」ではなく、
「体験知性」によって読むことになり深く考えることができると説いています。
「心に響く一つの格言を見出したなら、なぜ、その格言が心に響くのかを
自身の人生の「体験」から照らして考えてみる」

「本来、格言というものは、それを語った人間の意図や思想を超えて広がり、受け継げられていくもの。それを読む人それぞれの、自由な解釈、多様な解釈に委ねられるべきもの」

「自分ならば、この格言を、どう書き直すか」、「自分ならば、この格言の前後に、どういう言葉を付け加えるか」かを考えてみることで、一冊の本を読む以上に、豊穣な読書体験になる。
(「直観を磨く」p222~231)

短い格言を味わいつつ、深めていく手法としてとても面白く、安岡正篤の「六中観」を敷衍して、それに続く「観」を考えつつ、僭越ながら「十中観」なるものを作ってみました。

続く四つの「観」は以下の通り。

七、渦中・志有り(どんな渦の中にいても志を持てば翻弄されない。志が渦を作ることも)

八、雨中・快有り(「生憎の天気」はない。どのような天気でも四季折々の変化であり、あるがままに受け止めて楽しむ)

九、心中・徳有り(「徳とは何か」「徳の実践とは何か」を意識しての行動)

十、道中・友有り(アフリカの格言と言われている「早く行きたければひとりで行け、遠くに行きたければみんなで行け」の実践)

なかなか安岡正篤のような格調高いものにはならないのですが、「六中観」をベースに「My十中観」を作り、七~十は折に触れて見直していくということをやって行こうと思います。

格言の世界に入り、あれこれ自分なりの「My格言」にしていくことは、「壷中・天有り」の世界に入っていくことかもしれないとも思いました。

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