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反ガリ勉人生、それと努力への考察(9/15)

書いている途中で、急にアクセルがかかる。全開になってしまう。最近気づいた。まるで逆フォークボールである。(今はスプリットと云うらしい。どうでも良いが。)
ふざけて自分の勉強法も書いた。これは実に本当のことである。自分の好きなことしかやらない。すると、好きでなくなるようなことも出てくる。それでもやっていると、「好き」が「愛」に変わる。論語に「知」→「好」→「楽」の順で良い、というようなことが書いてあるが、楽しむには愛がなければならぬ。「好」は未だ半分。「好悪」で「愛」となり「全」となる。
僕はその意味で、高校時代、熱心に勉強した。(先生から罵声が聞こえてくる気がするが、気にしない。)
それはそれは熱心に勉強した。宿題は手をつけず、授業にも欠席し、夏休みの補習はお金だけ払って一回も出席しなかった。まさに「好」である。(反対であっても。)
世界史だけ成績は良かったのは、種明かしすると、教科書を読んだからだ。ただ読んだのではない、頭が痛くなるくらい読み、裏表紙が透けて見える錯覚が出るくらい読んだ。(眼光紙背に徹す、というヤツである。)当然のように宿題は出さなかったから、多分、先生も不思議だったと思う。小学校の時、世界史のマンガも読んでいたのもある。西洋中心史観から抜け出そうともがいている教科書が面白かったので、頭が痛くなる程読めた。他教科は、詰まらなかった。国語も、詰まらなかった。加えて精神的にギリギリだった。三年間通してギリギリであって、大学では炎が殆ど消えた。精神状態が良好なら、もっと勉強し、回答の用意され、思考回路を誘導する偏差値教育も優等だった筈である。故、僕は逆エリートであったが、見方を変えると正常であった訳だ。偏屈にはなった、大分。斜めに見るクセは中々抜けない。だが、振り返ると、これで良かった。これ以上ないくらい良かったと、自画自賛する。
(※真の努力は「愛」か「捨」。)
この知、好、楽、という順で見ると、面白いことが分かる。「楽」とは「楽」のみにあらず、ということだ。何故なら、この「楽」は「愛」を含む故に、「(喜怒哀)楽」となるからだ。
かつて、江原先生がご自身の音楽を生徒に揶揄され、怒り心頭となったことがあった。思い当たる節があると怒る、という場合もあるが、僕はズレを直感した。「魂が汚された」と迄言うのは、相当である。非を指摘され怒るのも、もしかしたら若干あったかもしれないが、大部分は「愛」故の怒りであった筈だ。もしかして、これは理解が難しい所は多くの生徒達にあったかも知れない。しかし、これは愛の感受性故の行為であって、当然愛の無い者には理解できなかった筈である。霊は霊でしか、魂は魂でしか、愛は愛でしか理解不能である。
故、孔子の言う「楽」とは喜怒哀楽全てへの「好」であり、「愛」なのだと僕は思う。実に実に、愛は微妙な光と陰を見分ける、感受する。
大変失礼乍ら、江原先生は歌の人、話し言葉の人であって、書き言葉の人ではないと思う。歌は「神妙」とでもいえる感動を覚える。言葉は、時々誤解を生んでいるようだ。否、しかし、僕は爰に、実に優れた教育者を見る。教育者の条件、それは愛でしかない。「愛」である。徒然草の彫刻の例えのように、鈍い刀こそ、優れた彫師に相応しい。
僕の見る所、先生の最高は歌への愛と、指導者としての愛にある。(そして、それらへの努力。)
敬愛して僕は止まない。不遜と思える表現も、僕の愛の裏返しであって、ストレートに受け取らないで欲しい。
このように愛のある先生は、日本どこを探してもいない。
「愛なくば、鳴る鐘、響く乳鉢のごとし」と聖書にあるが、真逆すぎて、この聖書の例えのように思う人もいるだろう。
然り、その様な人こそ、愛の無い人であると自覚すべきである。
「真廉に廉名なし」とは真に至言である。敬意を込め、記す。

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