見出し画像

努力と怠惰

私は努力家とは、とても言えない。寧ろ怠惰であると思う。その私でも尊敬する人からの引き立てや時折の達成があるのは、天凛でも才能でもない、病気によって強制的に努力し、思考した過去があるからだと思う。その意味で私にとって病気は宝である。

才能のない人間はいない。スピリチュアリズムの理論からもそれは肯うことができる。個々の差異とは物質的価値観や、表面上優劣に見えるものであっても、それは各々の個性であり、各々の色の違いくらいのものに過ぎない。それぞれの存在が各々の努力で経験と感動を重ねた先にあるのは、個々のまま、単一の個性では絶対に達成し得ないシンフォニックな調和の美である。バイオリンがティンパニーを嫉妬して何になろう?ピアノや、ギターを?指揮者にしたってそうだ。与えられた分限において、精一杯の努力を尽くせばよいだけである。

けれども、人は自分と他者を比べ、蔑んだり、得意になったり、ペカペカ切れかけた蛍光灯のように点滅している。全く意味のないことである。「世界に一つだけの花」が流行ったのはイクスキューズであったことを示すように、今日も生産性のない足の引っ張り合いが行われている。イジメとても、嫉妬心からされるものも多いだろう。理不尽な怒りは、理不尽な事象に対してだ。訳の分からない世界で、訳も分からず苦しみ、苦しめ、もがき合っている。地獄の様相である。

世界に常識に、理論と、理解を与えることだ。暗闇を光で照らすことだ。究極では霊的な真理が必要だろうが、その必要性とても経験と感動による成長を待つほかあるまい。

努力して努力するのは、未だしいことである。自ずから欲することが、自然努力となるのが本当であろう。自ずからなる努力、それが出来ないうちは仮令永遠なりとも努力するべきである。苦しみのうちに得るものは多い。果てない苦しみも、努力のうちに霧が晴れるものである。怠惰とは、引きこもりに似ている。理不尽な世界における、自己を整理するためのものがある。また、弱さによる怠惰もある。双方に必要なものは真理と、静けさであろう。

不徹底な哲学はただの毒である。表現形に惑わされては真実を失う。努力ともいえる怠惰があり、怠惰といえる努力の様なものがある。物事の本質を見抜くことは、叡智と経験の両輪が無ければなし得ない。その心眼を磨くことを、真実の努力と思う。人の見かけは実に頼りないもの。愛と捨が努力の真諦であるのは、これらのことを示すのであろう。

人を、世界を愛せよ。利己心を捨てよ。それが本来の努力になる。「怠惰な土地に花は咲かない」。愛をもって己を遇し、己に厳しくあれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?