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求道と道

宮沢賢治は言った、「求道すでに道である」と。卑近な例えにすると、「結婚はゴールではなく、始まり」というのと似ている。私たちは道を求め、困難の末に道を得るが、それはまた更なる道を求めていくことにつながる。真理を求めて旅に出た求道者が究極の真理を得たとしても、それはゴールを意味はしない。究極の真理を実践する道が開けるのだ。最高の伴侶を求め得たとしても、結婚から始まる生活という旅があるのだ。悟りには果てがなく、求道にも果てはない。果てがないということに於いて、求道も道も等しい。ここに於いて、悟りとは求道であるし、求道とは悟りである。その個々の違いとは段階の違いに過ぎない。
(これをスピリチュアリズム研究における霊的な真理に当て嵌めてみよう。)
現世に生きる私たちは元々、霊的世界にいた。霊的世界とは真理の世界である。光の支配する光の世界である。それが真理と光に満ちた世界にあって、それ故に真理と光を求めた。光は昼に真価は分からない。夜にあって光るものである。その強弱も分かる。物質世界、現世とは闇の支配する闇の世界である。真理の乏しい、夜の国、死の国である。光の国にあった私たちは、闇を求めて現世に来た。それは究極は自身を知り、光を知るためである。そして、闇の中、道を求め、光求め、七転八倒し、右往左往し、その中で愛を知り、光を知る。夜の中のささやかな光、真理を得る。そして生涯を終え、霊的世界へ帰っていく。そして、元いた世界の光輝燦然たることを明確に知るのである。現世に生まれることは闇を知るため。そして光を知るため。光と闇で己を明確に知るためである。故、現世に生まれる者は知者ではなく、愚者である。また、愚者ではあっても、光求めて現世に生まれた勇者であり、その点では道を知る者である。愚か故の経験を重ね、叡智を得た者は、より慈悲慈愛を知る者ともなり得よう。愚かなることは、叡智の種を宿してもいる。
それ故に、闇も光もないし、闇も光もある。あるというのは無知ともいえるし、ないと真実に知るのは叡智であると、この霊的な観点からいえる。「求道すでに道である」とは、「道とは永遠に求道である」と霊的真理で言い換えることができる。真理とは際限のないものであるが、それを虚無と捉えるのは早計であろう。なんとなれば、真理の喜び、真理を知る喜びを知らないからである。そこには永遠の喜び、永遠の悟りがある。永遠の不完成であり、実の所、これこそが完成なのである。惟神道(かんながらみち)とはこのことであろうと愚考する。
以下蛇足であるが、仏教は論理に重きを置き、神道は実践に重きを置いていた。実践の方が尊いが、これは非常にわかりづらい。論理は分かりやすいが、勢い実践が足らなくなる。神仏習合は日本人の智恵であった。まこと、恐るべき叡智である。日本的霊性は軽んじやすいだろう。それが唯物論の跋扈する今の日本の状況ともいえる。

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