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自殺について(自殺願望の終わり。その道標として。)(9/16)

狂っていた所で思考は思考だ、その人の性質を如実に顕す。狂った理由と、経緯すら現すやもしれぬ。いや、きっとそうなのだ。だから、僕は狂ってしたことにも責任がある。償いは絶対必要で、その方法がわずかでもあるなら、それをしなければならない。しかも、僕の場合、明白に自分自身の責任であり、服薬の義務を怠ったわけだ。無責任であった。プランで子供たちのスポンサーでもあったのに…。
僕に欠けるのは責任感。自信。努力。信仰心。
毎日祈り、祈るが如く生活する。一つ一つの挙措を、丁寧に、大切に。皆の幸いを祈るなら、もっと責務を感じて行動できる筈だ。そして、その行動は明るく、楽しいはずだ。僕の暗さは、努力の怠りでしかない。努力しよう。明るく、楽しく生活するために。人々の幸せとなれるように。暗く、恐ろしいもの。それは自分の錯覚に過ぎない。立ち返る、自分自身に。この暗く、恐ろしい世界は、一つの夢である、悪い夢である。目覚め、とは只々、気付くことに過ぎない。大仰な手振りは要らない。日常のほんのささいな、ささやかな幸せ、それがあれば充分この世界を幸せにできる。さあ、僕に今迄の人生で欠けていたものは明白だ。努力しよう、全身全霊で努力しよう。今迄の何もかも肯えるように。今が全てを決定する。ならば、今、ここだけ幸せにするでも良いではないか。今、ここが暗くなると全てブリ返す、とある人は云う。ならば、今を良くしよう、それで良いのだと思う。
自殺願望は甘い、中毒性のある、麻薬のようである。抜けきったと思った所で、人は中々変われないものだ。僕は又、このノートを捨てるかもしれない。それは一つの自殺、緩やかな自死だ。そうしない為に、色々工夫はしたつもりだが、人間、いや、自分の心はままならない。ただ、これは一つの記録というだけである。
7月に削除した6年分のデータ(詩、短歌、短編、エッセイ等)とて、ただ、自分の魂の記録というだけであって、魂そのものではない。外堀は埋まったかもしれないが、又掘れば良いし、本丸はなんとか無事であった。身辺片して死ぬというのは、自死でなく終活で充分。もう20~30年もすれば、お迎えもくるだろう。急くことはないさ。これがスピリチュアリズム、霊的真理の教える所だ。

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