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大審問官、スピリチュアリズムに関する未来の展望

イエスは来た。
イエスは拒絶された。
大審問官とはクリスチャンの謂いに他ならない。

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の中の、有名な一節に大審問官の件がある。キリストが再臨して、福音を再び伝えようとしても、大審問官は救い主は不必要である旨を言い渡し、キリストは大審問官に口づけをし去るという話だ。
なんともドストエフスキーらしい挿話である。悪の作家であり、悪の話である。だが、これがのっぴきならない説得力を持つのは、我々人類が悪に泥み、善を拒絶しているからだ。
だが、この話には間違いがある。キリストは嫋やかでなよなよした、もやしではない。とんでもない誤解である。
愛は優しい。愛は寛容である。愛は我慢強い。しかし、愛は智恵であり、力である。叡智である。みすみす人類を堕落に任せるって?そんなはずがない。人類の傲慢と堕落が極点に至るとき、愛は激しい雷鳴と共にくる。凄まじい鉄槌と共に打ち下ろされる。なぜなら、それは愛だからだ。
そして、イエスは愛である。人類の救いを画策し、スピリチュアリズムを地上に降ろした計画者の筆頭であると、霊界通信では記録されている。
我々は、スピリチュアリストは、神の代行者であるが、力及ばず、力弱く、地上は依然邪悪が蔓延っている。申し訳ない限りである。
救いの手、福音も空しく、人類に下されるのは激しい怒りに終わるのであろうか?この日本も滅び、世界も滅びるとなれば、そうなろう。
この国はそれほどまでに重要な国であり、世界は自らの希望を滅ぼそうとしている。売国奴はまさに人類の敵なのである。
我々は「最後の必勝」を画策する。最終の勝利を念ずる。
霊界が無為無策に人類の滅亡を見ているはずがあろうか?
ゆえ、我々の奮起が期待される。スピリチュアリストはもとより、日本人の奮起が絶対的に必要である。
日本人は家畜人に落ちたまま終わるのであろうか?我々は最後の一撃を、高潔だった祖先ゆえ、敵に見舞わなければならない。
それは僕においては、思想の戦いであり、ジャンヌダルクが国を取り返したように、天啓が主だった戦力である。天啓でしかない、天啓でしか。

我々の祖先は無惨に敗れた。我々は最早戦士とは言えず、家畜である。
だが我々には天祐がある。天祐しかない。
「無しのまま渡れば安き橋あるをあぜなずさうや玉の曇るに」という霊界の歌がある。無しのまま渡ろう。
天がある。天が味方する。
我々が必死に努力さえすれば、少なくとも一片の悔いもない。


蛇足ではあるかつてのレポート

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