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今でも絶賛、模索中。

思えば私は「安定した働き方」をしたことなど一度もない。

私は熊本にある4年制の音楽大学で音楽作りを学び、卒業直後に受かった芸能事務所に所属することとなり上京した。つまりちょっとの間「芸能人」だったのだ。
役一年半ほど所属させていただいたが、事務所のマネジメントと自身の方向性が合わず、また最初の結婚をしたこともあり(※バツイチ)、安定を求め辞めることにした。エキストラだけど月9とかデカデカと出たんやで(笑)。
何より、クソ真面目で融通の効かない性格の私には、アルバイトと芸能活動をうまいこと両立する事ができず、それが罪悪感に繋がっていた。力の抜き方を全く知らなかったのである。

初めての正社員

事務所をやめた私は必死で就活をした。実は勤めていたバイト先でいじめにあい、そちらも辞めざるを得なかったのだ(ストレスで腎盂炎になった)。
といっても、アルバイトしかしたことがなかったためタ○ンワークでバイトの求人ばかりを見ていた。しかしここでたまたま、とある会社の求人を見つけることになる。
”画像加工の仕事”、”要普通免許”、ふむふむ元々イラスト描くのにフォトショとか使ってたから面白そうだなぁ…免許も持ってるし…って正社員!?
正社員という肩書、今の自分に一番足りないものではないか!?私はその求人に飛びつきすぐに面接を受けさせてもらった。結果合格し、正社員として6年近くをその会社で勤めることになる。

仕事へのやり甲斐

仕事そのものはとても充実していた。求人には「画像加工の仕事」という記載だったのだが、加工する画像とは亡くなった方のための遺影写真だったのだ。面接の際、抵抗はあるかと聞かれたが、そんなことはまったくなかった。むしろとてもやりがいのある仕事ではないかと感じたし、実際にそうだった。
下積み時代は社用車を使って葬儀社様や火葬場といった客先にお写真を届ける仕事をし(なので要普免だったのだ)、実際に葬儀の現場で活躍されている方々とも交流した。そこから次第に社内での事務作業や遠方のお客様とのやり取りの経験を経て、やっと写真の加工のお仕事をするという一連の流れが社内には存在した。私は最初の配達業務において客先からの評判はよかったものの、途中でぎっくり腰になってしまったこともあり、通常より早めに内勤の業務に移ることになった。
しばらく経ち、私は仕事への思いをかってもらえたのか、ある上司の下につきその補佐という役目を仰せつかった。外部の企業に社内研修の委託をしていたので、その内容を組み上げたり、社内シフトを一括で任せていただいたり、他にも色々な仕事を経験することができ、仕事へのやりがいは更に強く感じるようになった。
しかしそれだけでは働き続けることはできなかった事情が、その会社には存在していたのである。

会社特有の「働き方」

先程業務の内容に「シフト作成」を任せてもらったと書いた通り、その会社はシフト交代制で動く会社だった。もちろん承知の上で入社したのだが、入社後どれだけそれがしんどいかを実感することになった。
まず会社自体の稼働は24時間365日、年中無休である。これは、葬儀業界自体が年中無休であることが前提なのである意味仕方がない。8時から21時までを日勤のメンバーで動かし、21時以降翌朝までを夜勤で対応する。
夜勤は依頼の受信のみ行い、写真の制作等は行わないので1人で担当するといった形だ。まずこの時点で、夜勤は12時間拘束のワンオペであることにお気づきだろうか。夜勤はそれ専門で働くスタッフが数名いたが、いずれも「兼業希望」の人たちだった。本業があり、その支えにするための夜勤バイトである。特に決まった休憩時間はないので、ほとんど依頼のこない深夜に自由に休憩したり仮眠をとったりしていたようだ。ここまではまあ一旦良いとしよう。
私が実際に入っていた日勤業務は、8時~19時の早番、8時半~19時半の通番、10時~21時の遅番の三種類のシフトで動いていた。お気づきだろうか、拘束時間は11時間である。しかもそれに対し、休憩時間は45分の一回。小休憩は取っても良いとされているが、タバコ休憩にいく人以外はなかなか取りづらかった。しかも問題はそれだけではなく、残業代が見込みで支払われていた点。そもそも9時間が一般的な拘束時間であり、+2時間の残業という扱いになるため、明細上は残業代が支払われていることになっていた。しかし実際にはその11時間を超えても帰れないことも多く、その分の残業代はもちろん支払われない。1日24時間のうち最低11時間+α拘束されてしまうと、正直家帰ってご飯たべて風呂入って寝るのがせいぜいで、趣味に時間を費やすことなどできない。働いた日は気分転換など到底できなかった。
極めつけは、月に10日必ず休みを取らされること。月に10日休めるならいいじゃん!と思う方もいるだろうが、いわゆる有給が存在しないのである。病気や怪我をした場合に取得できる有給がないのだ。これにはたいそう苦しめられた。元々体力がない私にとって、このシフトの組み方は本当に苦しかった。事前に予定がある希望休は月に5日まで出すことができたが、急な体調不良などで使える有給は、月10日の休みで勝手に消化されていることになっていたのである。ドユコトー。

社内における軋轢

正直今考えても謎なシフト&給与システムなのだが、まだ会社に残っている後輩に以前聞いたところ、今は就業時間も短縮され、人数も増えたため9時間拘束になっているらしい。それもだいぶ前に聞いた話なので、きっと状況は更新されていることだろう。
先程も書いたが私は体力がなく、この会社を退社直後、張り詰めた糸が切れたかのように自律神経失調症と鬱を併発、更に統合失調症の診断がおり、企業づとめというものが難しい身体になった。6年弱の正社員づとめと引き換えに失ったものは大きい。その原因となったのが上記のような身体的負担と、社内環境の悪さという精神的負担だ。
一言で社内環境といっても色々あるが、まず軽いパワハラは日常茶飯事だった。少しでも仕事が滞ると周りに当たり散らす人、電話を投げる人、壁を殴りに行く上司、威圧威圧のオンパレード。女性が少ない職場だったこともあり、やめてほしいと言いづらかった。年に一度、ボーナスを支給するにあたり全スタッフが全スタッフの通知表的なものをつける機会があり(そこでの評価がボーナスの支給額に反映される)、そういったときに一人ひとりの問題点を逐一指摘したが、改善されることはなかった。小さな会社で社長一人がその評価を集計していたせいなのか…。
私個人でセクハラに遭ったこともある。前述の下につくことになった上司との不倫を社内で吹聴されたのだ。とある社員が私と上司が出社しない日に大声で、あいつらはどうせ不倫してるんだと頻繁にのたまっていたそうだ。しかもその事実を私は1年以上知らされることがなかった。「もし本人が知ったらストレスでまた休んでしまうだろう」という社長の独断で隠蔽されたのだ。正直たまったものではない。リアルタイムで知ることができていたら、どこか適切なところに訴え出ることもできたのに、隠蔽されたために証拠集めもできず事件は闇の中である。
そしてなにより一番きつかったことは、体調不良などで休んだ人に対して他の社員の当たりがとても強いものだったという点だ。先に述べたとおり、病欠の際に使える有給はなく無給休暇となってしまうわけだが、それだけでは済まない。常に逼迫している現場で一人でも休むと、業務が回らなくなるという強迫観念に襲われ、休んだ人間に対して恨み節を言う輩が何人もいたのである。勿論、そういった雰囲気に対し良くないと思う人間も多くいたが、声の大きい人間の意見ほど耳に残りやすく、場を支配しやすいものだ。
私もよく休む方の部類だったため、休んでしまった日には罪悪感で死にたくなったし、今会社でどう言われているんだろう、次の評価でまたディスられるんだろうなと戦々恐々としていた。
感染性胃腸炎でやむなく3日休んだあとなどは、予定があって希望を出してとっていた休みをキャンセルし出勤しろ、それが周囲への誠実さだわかるな?と言われた。予定は泣く泣くキャンセルした。
逆に社内でインフルエンザパンデミックが起きた時は、シフトの調整を大至急やれといわれ休日出勤させられた。友人とランチ中に電凸されたので私服でそのまま会社に行った。たしかに他にできる人いないんだけどもさぁ…。

やりがいの「搾取」

さて、ここまでつらつらと述べてきたが、この会社に勤めて何が一番きつかったか、それはやりがいの搾取だ。確かに職種として、業種として、この仕事はやりがいがあった。いろんな仕事で勉強させてもらった、仕事面での信用も勝ち得た、さらに今までになかった新しい取り組みもさせてもらえた。しかしそれに見合わない労働時間・給与・環境・対人関係…6年弱の積み重ねで私は心身ともにボロボロになっていた。悩みに悩んだ末、会社と交渉の場を設けてもらった。様々な問題点を洗い出しリストを作り、その改善を求めたがその時点では聞き入れられなかった。結果、私は退社することになった。最初こそやりがいのある仕事に対して責任感が強いタイプの自分は、それだけでも満たされていたが、やはりそれだけでは駄目なのだ。補償がなければ心地よく働き続けることはできない。
挙げ句、退社を決めるまでは相談に乗ってくれていたスタッフが、私が交渉に入り退社という流れになった途端、執拗にいじめてくるようになった。6年弱の積み重ね、交渉の決裂、いじめ、再就職先での早急な就業といったことが重なり、身体を壊すという取り返しのつかない事態になった。志だけで生きていくことはできないのだ。

今でこそ俯瞰して見ることができているが、その後の様々な苦行を経てようやくそれができるようになった自分がいる。そして今は様々な人に支えられ、フリーランスという新たな働き方の一歩を踏み出したばかりである。この先どのような働き方が自分に一番合っているのか、その時々に応じて変わっていくこともあるだろう。そのたびに、原点に立ち返り、学んだことを活かしていければいいなと思うばかりだ。

#私らしいはたらき方

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