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自閉症の現象学📖

自閉症の現象学
Phenomenology of Autism             村上靖彦 2008 勁草書房
 
自閉症の人たちは、
世界をどのようにして経験しているのか?
フィールドワークの成果をもとに、
自閉症児の発達に一貫した論理を見いだし
現象学に新たな領域と概念を与える。
 
自閉症の発達の特徴は、定型発達の場合にはごく初期に自然と成立している経験の構造を、後から意識的に作り上げていくという点である。つまり彼らにとって発達とは新たな次元を次々と発見していく過程なのである。とすると、そのつど使える能力と手段を手がかりとして使って次の段階へとステップアップすることを考えるのが、理にかなっている。本書も、潜在的にはこのような仕組みを記述したものであり、ポジティブな発達と療育の道筋を暗示するものであった。             「おわりに」より
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  本書は、自閉症の人たちが、どのよう世界を経験しているのかを再構築することを目指す。そして、自然科学や心理学とは別の方法、すなわち現象学をもちいて彼らの体験の分析を試みている。(「はじめに」より)
 
 この著書は「どのような世界を経験しているのか」という視点が大変すばらしいものである。誰もが同じ経験をしているのではないという根本があり、発達に障害をもつ自閉症は、障害なく発達している人には理解しにくい困難さがあることを明確にする。著者は現象学をもちいて自閉症の人の思考回路を読み解いてくれている、自閉症を疑似体験できるものではないだろうか。さらに著者はこれが自閉症論であると同時に、哲学書でもあると述べている。フッサールなどの哲学者の視点にもなかった多元的な人間経験が自閉症にはあるという。自閉症が哲学の領域を広めるものであるならば、これまで自閉症への理解が薄いのも納得するものである。
 
 著書内での概念の定義
  視線触発…視線や呼び声、触れられることなどで働く、相手からこちらはと一直線に向かってくるベクトルの直観的な体験である。
  図式化…様々な異質の現象が浸透しあい、高次の秩序を形成する運動である。知覚・空想・運動感覚・情動性・言語といった相互に異質な次元が浸透して、感情表現となる。逆に、経験的には表情が生起する場が、もとの運動感覚や情動性は感じ取られる。
  現実…認識や了解、対処ができない得体の知れない現象の切迫のことである。とりわけ非感性的な不測の事態が問題となる。
  現象学は、反省という古典的な方法から開放される必要がある。直接体験できない現象、反省によっては届かない経験構造の現象学に対しては、構築的現象学という名称が当てはまる。
 
  自閉症児と出会ったときには、ある特定の感覚が生じる。すなわち、相手と私のふるまいの違いが、「差異の感覚」として直接経験される。この差異がまさにお互いの経験構造を照らし出す。
 
 この「差異の感覚」は、ある程度社会規範を持った人なら生じる、自閉症児の社会規範の薄さに違和感を覚えるものであると推測する。自閉症児が言うことを聞かない、大声で叫ぶなどがその例だ。その差異を異質なものとみなすのではなく経験構造の違いに着目したところがこの著書の魅力であった。視線触発の発見も大きな手がかりであった。
 一方、著者と私には明らかに違う視点がある。著者が現象学者として自閉症をとらえ哲学的に経験構造を論理化しているのに対し、読み進めていくうちに私にとって、自分自身の経験が構造化され論理化されていく過程を追っていくこととなる。つまり、私自身は自閉症の立場からの視点を持っているということだ。自閉症に該当する節は多々あるが、それぞれ段階を追って説明していきたい。ここでは、自閉症児と出会ったときに感じる「差異の感覚」について、定型発達者とはたぶん異なっているだろうことを伝える。それは私が自閉症の療育キャンプにボランティアとして初めて参加したときの思いであるが、自閉症児と対面すると、やはりまず自分の社会生活上の行動との違いを感じる。これがいわゆる「差異の感覚」である。次に私は自閉症児に対して結構な共感を覚える。ある種の懐かしさを感じ、子どもたちの感情が読み取れるような気がするのである。少々大げさではあるかもしれないが、少なくとも、「差異の感覚」から抜けないいわゆる定型発達者とは異なるはずである。
 著者は現象学者が定型発達者であるという想定のもとに記述を進めているのに対し、私は、この著書のなかで経験が構造化され論理化される過程を自身の経験と比較しながら記述を進めていくこととする。結果的に大部分が、確実に論理化されていくことになる。
 
  そもそも定期発達とは、実在する「正常な人」などというものではなく、発達過程を共有する大部分の社会構成員というほどの意味であり、現実の誰かを指すわけでもない一種のフィクショナルな理念値である。
 
 自閉度の強い子どもの場合、目が合わない、あるいは呼ばれても触られても相手の存在に気づかないことがある。ふだんはコミュニケーションがとれる子でも、ミニカーのタイヤ回しや好きなビデオの物まねに没頭している間は呼びかけには気がつかない。このようなとき、子どもはいかなる体験をしているのだろうか。
 
気がつかないという体験は私にはよく身に覚えがある。
…よくテレビに見入っていた。見入っていたというよりも入り込んでいたかのような錯覚である。定型発達の場合も幼少期にはそういった経験もあるだろうが、私の場合小学校中学年ほどまで続いていた傾向だ。家族でテレビを見ていても、いつのまにかテレビのみの音声しか聞こえず、現場の観客のような存在となって拍手するときには一緒になって拍手し、笑うときは一緒に笑った。そのとき、家族の存在はすっかり忘れ番組が終わって振り返ると家族が座っていたことに驚くこともしばしばあった。さらに、後で「一緒に拍手していたね」と言われても、拍手をしたことを忘れているときもある。家族の存在に驚いたときは、その状況を受け入れるのに少し時間がかかり、「家族と一緒にテレビを見ていた」と状況を考えることもあった。
 高学年になると、親から指摘されていたこともあり、自分がテレビに入り込むことを自覚するようになる。それまでは無意識的に入り込んでいた感覚を知ることとなる。中学生ころに「自分の世界に入る」という言葉が流行ったが、この言葉は一人でいる、集中するといった意味を逸脱して、この無意識の感覚のことであると最近まで思っていた。
 
ほとんどの人は覚えている限り視線を感じる世界の中で育ってきているので、視線の交わることのない自閉症児の体験を想像するのはとても難しい。さらに難しいのは、視線を感じない自閉症児にとって「感じない」ということは欠損ではないということである。
 
 自閉症児にとって「感じない」ということは欠損ではないということとは、つまりその人にとっての当たり前であり、「感じない」こと自体がないのである。何に対しても「感じる」ためには、「感じる」ための対象を認識する必要がある。その認識のためには、単なる丸いものではなく「目」が視線の媒体になることで、スキンシップや呼びかけとなる視線触発があるという。自閉症児はその認識がないために、視線を感じない生活を送ることとなる。
 著者は「生き物と無生物の区別が存在しない世界」というが、本当にそんな世界なのだろうか。少なくとも人間と動物の区別はする、視線がないからと言ってすべてがなくなるわけではなく形としての認識はあるものとする。形としての認識しかないことが自閉症の特徴であると思う。
 いわゆる「自分の世界」がある。重度の自閉症の場合、自分しかいない世界では他人は背景の一部でしかない。そのため、他人が何をしようと関係のないこととなっている。これが、目を合わせない、目が合ってもコミュニケーションをとろうとしない要因だと私は考える。そう考えるのには、幼少期の私にも思い当たる節があるからだ。よく自閉症の人が語る「人形劇」のような世界観を当てはめる。
 …保育園ころまでの私にとって、私以外の人間は想定外の話である。家族にしても、いるのが当たり前、ましては近くにいてもいなくても関係なかった。けれど、父、母、兄の区別はきちんとしていた。というより、自分の中で役割を決めていて家族には役割通りのことを要求していた。自分の思うように役割分担をし、もし欲しい物を買ってもらえない、持ってきてくれないときには相手の事情などお構いなしに大声で泣いていた。これが自閉症児のパニックと同様である。
 他の人が自分と同じように生きている、ということがわかっていなかったので突然現れるものに対しては敏感で、警戒心があった。家の中でも急に視野の中に人が入ってくると驚いた、という思い出もある。家族が自分の想定外に行動していることが信じられていなかった。
 そんな私もある出来事を境に、その考えを大きく改めるようになる。普段と変わらず、家族でドライブしているときだった。いつもの習慣で、何気なく窓の外を流れる景色を見ていた。見ていたといっても、何に注意をするわけでもなくただ流れる風景が好きだった。ところが、ふとガソリンスタンドを見ると二人の人がおしゃべりをしていて驚いた。一瞬わけがわからなくなって車内の家族を見たり、隣のレストランの中の人たちを見たりしてみた。すると、私以外の人が私の想定外にみんなおしゃべりをしている。何てことだ。そうだったのか、と気づいた。たしか、小学校2、3年生のころのことである。定型発達ならば、5歳ころにはその感覚があるらしい。これがこの著書のなかでいう、「視線の誕生と世界変容」に当てはまる。
 
  (視線の誕生と世界変容)今まで他の人の存在に気がつかなかった自閉症児にとって、人と目が合うようになる経験とは、感性的印象だけでできた一次元の世界から、いままで全く存在しなかった次元が出現し、そこへと突入する経験であると言える。
  自己組織化はするけれどもこちらにむかって迫ってくることはない感性野のなかに、「こちらに向かってくるベクトル」が生成し、それを中心として感性野が再編される。
 
「視線触発が形成する固有の次元の中で、相手の身体性が生成し、体験されるという現象が生起する」ことを「間身体性」ということが示されている。さらに視線触発から間身体性にいたる過程を「図式化」としている。この図式化は、視線触発のみで組織化されるものではないが、定型発達者と自閉症の経験構造を明確にするので注目する。また、この図式化は自閉症者のものの捉え方を的確にとらえているものである。
 
  他者の視線のもとでは、知らぬ間に私は他者を情動的・運動的にある秩序を持った仕方で組織化している。図式化においては、視線触発と情動性と運動感覚の成分を分離することはできない。図式化とは複数の次元が組織化しつつ浸透しあい、知覚野において高次の統一された現象を形成する運動のことを指す。それぞれの次元が変質しつつ組織化し、高次の次元を形成する。
 
  定型発達においては連動する一連の運動が、自閉症においては連動していないことになる。もともと視線に意味を持っていないため情動性と運動感覚の成分が分離している状態であるといえよう。定型発達を成さなかった自閉症にとって、視線に意味を持たせることから始まり、連動してこない情動性や運動感覚の成分も自ら意識して連動させていく必要があるということか。
 …つまり、自閉症は図式化のために視線を発見しマニュアル化させることからはじまる。そして、相手にはタグをつける。相手の情報を集めインプットし、タグをつけることで視線のマニュアルと照らし合わせ、さらに自分と相手の運動の意味を考える。定型発達では、一般に連動する動きも自閉症では連動しないという障害が起きている。
 私の場合は、雑談というものが苦手である。一つの目的で論議されているならいいが、雑談はころころと変わる論議で特に人数が多くなるほど情報量と処理作業が多くなり混乱する。さらに自分の行動を決めるとなるのが大変だったりもする。定型発達に対し、こういった非定型発達の図式化があることは今まで誰も教えてくれないことであった。
 
 重度の自閉症児にとっても、視線の誕生によって世界変容が起こることがp.30の例にある。フィルディナンという少年は無視されたことで視線触発への気づきが生じたが、これは彼にとって大きな出来事であっただろう。多くの自閉症児の場合、潜在的な視線触発を目前にしても気づかないことが見受けられるため、視線触発の機会を得ることが重要である。
潜在的な視線触発を目前にしても気づかないことが見受けられたのは、重度自閉症児が物を取りに行く行動があったときだ。その子が他人の物を持ち去ってどこかに置き去りにしてきたとき、「探しにいこう」と促すと大人しく付いてきて、見つけたときに「あった」と言って、自ら返しに行った。普段落ち着きがなく動き回り、行動を抑えられないその子にとって自分の行動もわけがわからない状態だと推測するが、そのときだけは、落ち着きがあったと感じる。「探しにいこう」と話したときには、よく目が合っていたと感じた。しかし、返しに行ったあとは元の状態に戻り、何をしていいのかわからないという様子に見受けられた。音楽や芝居などの鑑賞は集中してできていることから潜在的な視線触発は存在していると推測する。
このことから、自閉症にはいわゆる「自分の世界」と「視線触発の目前」と「視線触発後の世界」という発達があるといいたい。定型発達で無意識にする発達も、自閉症によって意識的に発達していくことで得られる段階があるものである。後から意識的に作り上げる経験は、ステップアップの機会!

(2010卒業論文より)

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