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【仕事続かない問題①】脳内垂れ流し

どうも、引きこもり系主婦です。

最近はもっぱら、NLPについての本を読んで自分自身の過去という点と点を結び付けて自分について考えています。

ちなみに私は知りたいことがあるとネットサーフィンしますが、本も読み漁ったりするので、紙を買うよりは安くなると思ってKindle Unlimitedの読み放題を利用してます。ぶっちゃけ月980円の出費もかなり痛い貧乏人ですが、これは必要経費。そう、必要経費。ごめんなさい。


私はずっと、お金と愛情を比べたらどっちが大事か?と問われれば、愛情派です。お金があっても孤独はしんどいですし。お金は無いと生きていけないけどね。

お金という概念とか物自体が無ければいいのでは?と考えたこともありました。

でも、絶対的に労働というものは発生すると思うんですよね。だって現代の私たちは完全に物流がないと生活していけないし、食品だってほぼ輸入よ?スマホだってもはや持ってない人探す方が難しい。そんな時代に生きている。

労働がもしボランティアになったら…正直耐えられない人もいるんじゃないかな。

すんごい理不尽な言葉を投げかけてくる人もいるし、お店なんかでも店員さんに対してとんでもないこという人とか態度が悪い人とか、小銭を投げるように出してくる人も中にはいますし。「タバコ」と一言言って銘柄教えてくれないおじさまたちも結構いますし。(接客業経験者)

クレームを受け付ける仕事をしている人もいる。それは企業の成長につながることもあるからなのは知ってる方も多いかと思います。

でも、誰もが強い志を持って仕事をしているわけではなくて、生活のためとかそういった理由で働く人はわりと多いんじゃないかな。

そんな中で労働に対して、人間すべてに共通した対価であるお金がなかったら?

ボランティアも労働の一部だと考えたとして、ボランティアでもやりたい!!と思えるほどの労働は、とてもいいことだと思うけれど、多種多様な労働があって、誰もが対価なしにボランティアでも幸せです!!と全員が言えるかといえばそれは無いな。と思うんですよね。

お金は国によって円だったりドルだったりの違いはあっても、用途やお金という概念として共通の物であることが大事で「あなたは1円が500円として使えます。あなたは500円が1円としてしか使えません。」とかそういったチートルールもない。

お金の代わりに昔みたいな物々交換を想像して今に当てはめて考えると、「あなたの報酬は塩です。」ってなった場合、自分が塩以外に必要で足りないものと塩を交換してもらう必要が出てきます。じゃあ自分以外の人が必要なものを持っていたとして、その人が塩はあるからいらーねーよ。とか言われたら困るじゃないですか。

遠くの人に塩と必要なものを交換してくれる人がいたとしても、物流だったり電車なり利用するときの対価は塩では無理です。いらないです。ってなったら詰む可能性が大いにあるわけじゃないですか。

でもお金の場合、対価としてもらった後、何にでも交換できるわけですよ。買えるものであれば。

逆に労働を提供してもらうときにはお金を支払うことでなんの後腐れもなくそのサービスや労働を利用できるわけで、その仕組みが無くなって得をする人間は基本的にいないどころか、人の物を盗む人も増えるだろうし、治安の面でも相当悪くなるのでは?と思ったんですよね。

だから、お金は必要だな。うん。なんて考えたんですけど…


でもお金の存在意義が理解できたからと言って、私自身の仕事が続かない問題は全く解決してないんですよね…。

中学1年生のとき、人間関係を優先し授業を聞かなくなったり、不登校になってから、私の思い描いていた王道人生、順当に高校行って大学行って就職して…という道はもはや絶たれました。

もちろん今からでもまだ遅くない。という道もあるのだけれど、子供がいて、そもそも生活費すら足りていると言えるか怪しい中で、自分にかけられるお金があったらまず子供にかけたいですし。

いずれは17歳の時に1度受けてそのままになってた高等学校卒業程度認定試験の残り2科目取って、いつかは通信制の安い大学行けたらいいなぁ…なんて漠然と思ったりはしますけど。

まあ現状では、王道人生は今すぐ選択できる道ではないんですよね。というか「王道人生だったら仕事が楽しい!仕事続かない問題なんてどっかいったわ!楽しそうな仕事に就ける!」ってなるようなそんな補償どこにもないでしょうけど。

なんとなく漠然と、自分の乗っているレールが変われば何かが変わるのではないか?仕事も楽しく続くんじゃ?という思い込みがあったのかもしれないですね。点と点を繋げて考えてみると意外と矛盾点って出てきますね。

もちろん大卒と中卒じゃ全く収入が変わってくるのは事実で、学歴があるに越したことは無いんですけどね。

きっと私がしたことないであろう経験も色々散りばめられていそう。学生生活…お金問題を除けばやりたいわね。


NLPの本で、お金のことについて触れられていました。

その中で私が「盲点だった!」と思ったのが、お金は社会貢献の対価であって、それ以上でもそれ以下でもないっぽいぞ?というところ。

散々労働と対価について語ったわりに「お金=対価」というところまではわかっていても、「貢献度(労働)=お金(対価)」という公式は頭にないどころか浮かんだこともありませんでした。

そりゃ私は社会への貢献度で考えれば相当低いはずだし、高学歴の方々のようなハイスペックでもないから、対価としてのお金が少なく貧乏であることは完全に納得です。

貧乏だからお金がないから辛いとかそう言った感情はないです。ミニマリストだと思えば、不要なものは増やさず、余計なお金を飛ばさないことを考えるのも全く苦ではない。

こんまりメソッドを取り入れれば、人が持っているものに憧れを抱いてあっちこっちに目移りして衝動的に買うよりも、自分がこれが好き!長く使いたい!そして使いまわせる!1台2役!みたいな物を選んでちゃんと考えて好きだと思えるデザインを生成するか買えば良いのだから(金額はもちろん出せる範囲の物。)結果として長く使えればそれも節約になる。

限界貧乏だけれど家族仲は良好ですし、十分に幸せに生きている。

ミニマリストやこんまりさん、2ちゃんねるのひろゆきさんをきっかけにランニングコストを下げるマインドをなんとなく手に入れて、貧乏でもお金がなくてもストレスを感じることは今は無いです。

収入が増えても、ある一定のラインあたりから幸福度は上がらないなんて統計もあるみたいですが(メンタリストのDaiGoさんが言ってた気がします。間違ってたらすみません。)そもそもお金=幸せと直接繋げるのは、ちょっと違うな、と。


ということはですよ。私が仕事が続かないのは、完全にお金が理由では無いということだと思うんですよ。

「仕事=お金=幸せ」ではないのなら、学歴が今どうにか出来ても、仕事すれば自由に使えるお金を手に入れて食洗機を買うだとかそういったことをモチベーションにしようとしても、上手くいかなくて今があるのが非常に納得できる。


一旦整理すると、私が仕事が続かず生活費が危うくなってる今、子供や家族を路頭に迷わせるわけにはいかない。そんな中で仕事続かない問題は、絶対的に解決すべき問題。

ちなみに今、私は仕事を辞めたわけではなく、自分の不調で仕事を長々とお休みしています。(すんごいいい会社なんだぁ…)

消去法で行けば

・モチベーションをあげようと己の幸せに繋がることを考えること

・学歴を手に入れて仕事の選択肢を増やすことで仕事が続くのでは?と思い込むこと

この2つは全く意味を成さない解決策だということ。他を模索しなければいけない。


一つ、わざと遠ざけていた私の叔母が最近夜にアプリのことでわからないことがあるからと唐突に夜に押しかけてきて、最悪な気分になったのだけれど、自分の嫌悪感はどこから来ているのか考えて、思い当たったことがある。

私はどうやら己に抑制や制限を感じることに非常にストレスを感じやすく、そういったものを避けるプログラムがあるのでは?と。

どういうことか一応説明します。

私の叔母が統合失調症という病気で、ちょっとしたことやありもしない事柄を述べては(友達と談笑してたら私の悪口言ってるでしょぉぉぉ!と大声で怒鳴り始める等)暴れることが日常でした。

私が小学生の頃に、祖母が統合失調症には否定してはいけない怒ってはいけないみたいな対応をするらしいとどこかで聞いてきた時から、叔母の意見は絶対。拒否すれば暴れる。という構図が出来上がり、有無を言わさず我慢して言うことを聞くしか無いという10代を過ごしました。

その中で印象に残っているエピソードが2つ。書いてるうちに祖母と叔母の悪口ばっかり出てきたのでやめます。簡単に書きます。

私が反抗期に入り始めた頃、叔母からあげたものを返してほしいと言われるが、使っているからと拒否したところ暴れ(借りたんじゃないのよ?!)祖母に怒られる。

弟にお小遣いをあげたら、叔母にもくれと叔母と祖母に打診されたが拒否。暴れる。解せぬ。


私が拒否したのはこの2つのエピソードだけで、あとは全て飲み込むしかなかった。

幻聴やら妄想やらで、ありもしない責任を負わされ謝る。そして、でも私はこうしていただけだよ。と事実を述べて叔母が落ち着くまで付き合う。

ずっと我慢だと思っていた。嫌だった。でもそれでもわざわざ叔母に付き合っていたのは、暴れる先に待っているのは自殺だからということ。

なだめて落ち着ける作業をしなければ、家を飛び出し自殺を図ることが過去にあった。

まして、私が10代のころ、仕事に行く時にたまたま言い忘れた「いってきます」がきっかけで、「私が嫌いなんだ」と思い詰めた叔母は自殺未遂をして、下半身複雑骨折という結果になった。

私は叔母に対して相当神経をすり減らしていた10代だったと思う。

そもそも叔母の面倒を見る責任は私ではなく祖母にあるというのに、おかしい話だと思う。

本に書いてある通り、人間は常に「快」である安心や安全、安定を求める生き物なのであれば、私はその出来事を通して、抑制を感じる可能性のあるものは避けるというプログラムを持っているっぽい。そう思う。

そして、私は仕事に対して「お金がもらえる代わりに拘束時間があり、会社では自分より上の人の意見やルールは絶対。年功序列の概念。ルールを知らぬ者は失礼、非常識、と叩かれる。郷に入れば郷に従えって感じでその環境のルールに自分の嫌は関係なく従わなければならない」という認識を持っている。

この認識はまさに、抑制は嫌というプログラムが動く条件が揃っているといっても過言ではないのではないだろうか…。

だから私は無意識下で人間関係にも疲れ、仕事に行くという行動が起こせないのだろうか。しかし抑制が嫌という以外にも何かある可能性もあるにはあるかな…。

まあ、まず本に習ってリフレーミングするなら、抑制を嫌うプログラムは悪いわけではない。誰もが奴隷になりたいと懇願するだろうか?普通は避けるだろう。避ける能力を失うと言うことは自ら奴隷になりにいくのと同義でしょう。

自分にとっての不快を避ける能力が1つ装備されているわけで、その武器を丸々捨てるのは待つべきだ。

そして、では装備を捨てずに仕事続かない問題をどうにかするには、まず仕事に対する認識を変えて、抑制を避けるプログラムが仕事に対して出過ぎないようにすると良いのかな。

そろそろ私も考えるの疲れてきたわ…。だって、その認識にも何かしらのプログラムが存在するってことじゃない?多分。もしくは五感で受け取るそのモノ見方に偏りがないかとか精査しないといけやい。

先は長いな。いや考えるのをやめる選択肢を取るつもりは微塵もないけども。こりゃ大変だ。

ひとまず私が読んだ本では、プログラムの書き換え方がいまいちわからなかったので、ググりました。ありました。


抑制は嫌プログラムを発動させないように認識を変えるのは間違っていなそうです。

そんで、仕事の認識の理想を考え、LからNの感じ方に方向づけて、Pを新たに作る。

仕事に対して新しいプログラムを作れば良いということですね。

もうだいぶ疲れてきました…。

そして私は、仕事を続けるためのプログラムを持っていないってことになるんですね。

要するに理想も何も、仕事を続けるためのマインドを知らない。ゼロ。

私にとって仕事を続けるためのマインドは、お金に関連するものだったり己の幸せとしてのモチベーションではない。

仕事に対する認識を変えて理想の認識に意識的に変更。それにより自ずと前向きなアウトプットが増えることで新たなプログラムが完成する。


何回も同じこと書いてて申し訳ないのだけれど、脳みそが追いついてないので悪しからず。脳内垂れ流しなので、思いついたままに書いてるけど、私は少しずつ少しずつ同じ言葉を並べながら自分の覚えやすいように並べ替えていくみたいですね。面白い。

そんなことより、やっぱり仕事に対しての認識を一つずつ潰しながら、では理想的な仕事という物の認識は何なのか考える必要がありそうです。これは時間がかかりそう…。


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