読書ノート 13 オリクスとクレイク
明日に続く未来を描く小説は
未来小説に違いはないが、そこに描かれているのはAIやロボットではなく、また地質学的なスケールの未来でもない。未知のウイルスが蔓延し、そのパンデミックが人類に襲いかかる。不安と恐怖がつのる。
ディストピア小説ではあるが、全くの絶望が待ち受けているわけでもない。ディストピア小説には、政体や権力が市民の個人生活まで監視の目を光らせるジョージ・オーウェルの「1984年」に代表される作品群があるが、
この本が描く絶望郷は異なる。秩序が崩壊し、統制も強制もないが孤立した個人がバラバラにいる状態の社会だ。だから神のような人が現れれば、カオスから秩序を取り戻す可能性もある。
著者はあまりにも有名なカナダの女流作家、マーガレット・アトウッド。
「侍女の物語」「請願」ではトランプ政権の出現を予見したようなディストピア小説で話題となり、その余震は現在も続く。今度はカオスの中から立ち上がってくるであろうディストピア小説を放った。希望はあるのか、私たちはどこに向かうのか、アトウッドの声に耳を傾けてみよう。
絶望郷ーその生まれた背景は?
未知のウイルスが猛威を振るい、地球上を丸のみするような勢いで広がる。人類絶滅もあり得るという恐怖が、生き残った人々の中に生まれる。しかも時間は切迫しているようだ。未知のウイルスの蔓延は「水のない洪水」にもたとえられ、旧約聖書に記されたノアの箱舟の物語を彷彿とさせる。とすればこの作品でのノアは誰であり、ノアがあらゆる動物家族を導いたアララト山はどこだろうか?
クレイクは現代のノアか?
クレイクは新型ウイルスが猛威を振るう直前に、先端研究企業が集まったコーポレーションで人造人間を作り、同時に健康医薬品の一つ、プリスブラスの開発を進めていた。人造人間はクレーカー(クレイクの子ども)と呼ばれ、欲望や嫉妬といった人間を過ちに導きやすい性質を取り除き、温和で従順な性格を授けた新人類の誕生を目指していた。もう一方のブリスブラスは男女ともに憧れる媚薬(性的興奮剤)で市場から歓迎された。
ところが未知のウイルスの蔓延はブリスプラスの普及と歩調を合わせたように広がり見せた。開発者のクレイクも、最先端の遺伝子接合技術が、実際の人体でどのように働いているのかまでは予見できない。神のようなクレイクにも、ウイルスは危険を察知する機会を与えたようだ。副作用を止める手立てはあるのか? クレイクに許される時間は多くない。
パンデミック前の状況
ここで少し時間を遡っておこう。
パンデミック前、世界は二分されていた。一つは要塞のような壁で囲まれ、一流企業(コーポレーション)のみが入居した「構内」。もう一つはその外の「ヘイミン地」。コーポレーションの家族は「構内」に居住し、社会インフラも完璧である。一方「ヘイミン地」の住民は生活も生業もギリギリの水準に甘んじていた。コーポレーションが配備した警察(コープセコー)はヘイチ民が構内に入ることを禁じ、侵入した場合は追い出された。ヘイチ民を排除するのは、彼らに未知のウイルスや安全性が不確かな物を持ち込ませないとのもっともらしい理由が添えられてはいた。
クレーカーたちのクレイク、オシリス、スノーマン評
クレイクの子どもたち、クレーカーたちは率直である。生みの親であるクレイクは自分たちの創造主、神である。オシリスは動物界の女王。そしてクマのぬいぐるみのようなスノーマンはやる気のない預言者。スノーマンは幼少時はジミーと呼ばれていた記憶がかすかにあるが、はっきりしない。この物語では洪水の年のスポークスマンとしてクレーカーたちのガイド役となる。
マッドマダム
神と呼ばれるクレイクではあるが、権勢を誇るだけに敵も多い。敵対勢力で警戒すべきはマッドマダムを自称するバイオテロ集団。仕掛けるのは生物化学兵器だ。同調者はヘイチ民だけではない。コーポレーションの中にも気づかれないように紛れ込んでいる。コーポレーションが入居するパラダイス・ドームの傭兵や社会インフラも攻撃の対象になるにつれて、緊張は一挙に高まる。ここでオリクスとクレイクは斃れ、スノーマン(ジミー)独りがクレーカーたちとともに残り、かれらの生まれたパラダイス・ドームに向かう。
真に恐るべきは
本作品ではさまざまな切り口で今日の世界が直面している問題や課題に光が当てられている。最大の関心事は人類を破滅に導きかねない新型ウイルスや生物・化学兵器、バイオテロである。とくにロシアによるウクライナ侵略戦争では、ロシアが核兵器の使用を公言し始めた。考えたくもなかった第3次世界大戦さえ招きかねない。
本作品では直接語られていないが、地球温暖化も深刻である。本作品に続く「マッドアダム」3部作の第2部「洪水の年」にはこの問題が取り上げられている。
差別は形を変えながらしぶとく残る
本作品で触れられているように、さまざまな場面での格差や差別も残り続ける。ここでは割愛したが、クレイクとジミーとの幼少時代からの関係でも、理系と文系で進学する高校も大学も就職でも格差があり、一方は雇用側に他方は被雇用側に別れ、社会的地位や経済の状態も含め、毎日の気分や感情にさえその影響は及ぶ。それが頭の良し悪し、もろもろの「ガチャ」に由来することに気づくと気が滅入る。
フェニックスのような作家
マーガレット・アトウッドは1939年生まれ。ことし84歳になる。この作品は2010年に英語版が出版されたので、もう15歳になる。読み直すと瑞々しい問題意識とフィクション創作力に圧倒される。天与の才に祝福あれ。
訳者の畔柳和代さんにも謝意を表したい。原本の才気間髪でしかしユーモラスな文を、こんなに流麗な日本語で読める幸福感に満たされた。ありがとうございました。
データ:作者はカナダ生まれのマーガレット・アトウッド。数々の名作とそれらに対する世界的な文学賞・文芸賞の受賞歴がある。
出版は早川書房。2010年12月。467ページ。
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