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Youはなぜアメリカに来たの?

テレビのパクリ?はい、そうです。さて、アメリカで初対面の人によく聞かれる定番の質問ナンバーワンがこれです。なぜアメリカに来たの?これがまた返答に困るんですよね。いや、理由が無いという訳ではないんですよ。ただ元々の動機がもうあやふやで、実際にそれが決定的な動機かどうかはっきり分からないんです。結果その場の会話を凌ぐために半分作り話のような動機を言って、へーすごいねー、と言われて会話が終了するという流れです。今回は渡米した由来と、現在へ至るまでの職歴を紹介したいと思います。
  自分が渡米したのは19歳の時でした。それからあっという間に16年という年月が経ちました。一番強烈に渡米を刺激されたのは正月の綾戸智恵さんの生涯を特番にした番組でした。当時自分は高校3年生。吹奏楽部でトランペットをやっていて、もちろんジャズも大好き、毎日聴きまくっていました。当時の自分の成績はお世辞でも日本の3流大学にギリギリ入れるくらい。日本の大学に行くモチベーションも全くなく、高校3年の大事にな時期に時間を無駄にダラダラしていました。親父もお袋も相当心配してたでしょうね。そんな親を横目に本人はただジャズを聞いてアメリカ行ってみたいなーと考える毎日。そんな時に見た綾戸智恵さんのドキュメンタリー。単身で17歳の時に渡米、波瀾万丈な経験を積みそしてジャズピアニストとしてこちらで成長していくお話です。詳しくはご自分で調べてくらはれ。当時18歳のアメリカに憧れる高校3年生には刺激が強すぎました。この人すげえと。何故アメリカに憧れていたのか?それが分からないんですよ!ただの横文字好きだけだったのかもしれません。そのくせに英語の成績は最悪でしたからね。当時は自分なりにこのまま日本でダラダラと大学に行って自分は何をするんだろうと考えていました。それならアメリカに綾戸さんみたいに行ってみたいと強く思うようになりました。綾戸智恵さんもそうですが、自分もプロテスタント系のクリスチャンでして、家族で教会に毎週日曜行っておりました。その教会繋がりでアメリカに来るチャンスが与えられた訳です。
  そして早送り6年、ペンシルバニア州にあるキリスト教系4年制大学から経営学の修士号で卒業します。自分の周りにいた日本人は全員日本へ帰りましたが自分はこちらでの就職を決意します。ほんまのこと言うと、大阪府警に入りたかったんです。参考書も買いました。勉強もしました。ただ、、、ある教科で躓いたんです。それはなんと、古典です。なぜ警察官になるのに古典を勉強しないといけないのか。英語が既にネイティブ並みに話せるようになっていた自分がなぜこの宇宙人の言語のような誰も喋らないものを勉強しないといけないのか。諦めました。

ノースカロライナ、ブルーリッジ山脈

  そして20社くらい応募した訳ですが、その中から5社ほど日系の会社から面接していただき、最終的に2社から内定をもらいました。そのうちのアメリカ南部にある日系の車業界パーツサプライヤーを選びました。これがまたノースカロライナの田舎にある小さい会社でね。本当にど田舎です。大阪で生まれ育ちましたが、小学生の時に新潟の上越市にある高志小学校で2年過ごしました。その時の経験から田舎が大好きになり正直この会社を選んだのもノースカロライナの山岳部に近い場所だったからです。そして結果このノースカロライナに6年いる事になります。いやー最高でした。仕事終わってから近くの山へマス釣りに何度行ったことか。自分の愛車ZRX1200に乗り、山のクネクネ道を走り、そして事故って顎を36針縫ったこともあります。非常に良い現地の友達にも恵まれ狩猟に目覚めます。プライベートはこんな感じですが、会社の話をしましょう。

家から30分くらいのA級清流

  この会社は車業界でいうTier3というフードチェインで言うとかなり下の会社でしたが感謝しても仕切れないほど良い経験をさせてもらいました。もちろん嫌な経験もいっぱいしましたし、何度辞めようと思ったか。数え切れません。ただ今から振り返ると今ある自分はこの会社で経験を積んでいなければいないと思います。H1Bビザという就労ビザもこの会社に出していただいて、延長もしてもらいました。上司にも恵まれました。日本人の方ですが、まるで教師のようなお人で今でも恩師として連絡をとっています。さて、6年そこにいましが、グリーンカード取得と同時に妻の実家であるペンシルバニア州に帰るという決断に至る訳です。当時の自分は6年間サプライチェーンを纏めてきて部下も5人ほどいましたので自信に満ち溢れていました。その勢いでペンシルバニア州の会社にいろいろ応募する訳ですが、、、ここでプライドが完全にへし折られる訳です。自分が持っていた手帳に応募した会社の全てをリストしてあります。総計なんと45社。そして面接に至ったのはたったの2社!そのうちの一社は2時面接で完全落ちをくらい、ノースカロライナからわざわざ運転してきたのに9時間かけてその日のうちに帰ることになりました。妻の親御さんにも合わす顔がなかったからです。
  そして継続して応募して、拒絶されての繰り返しでやっとフィラデルフィアにあるアメリカ現地の車パーツ関連会社から面接をもらいます。電話面接で一次面接を行い、アメリカでは珍しい入社テストみたいなものを受けました。そして9時間クルマで遥々ペンシルバニア州へ向かいました。着いたのは当日の朝。会社近くのドーナッツ屋さんの駐車場でレジュメのチェック。そして何度も何度も練習した面接応対のチェックリストを再度確認。時間の10分前にロビーへ出向き、いざ面接へ。面接は5人のアメリカ人管理職に囲まれて質問攻めでした。あっという間に40分ほど経過してこちらから会社や仕事に関しての説明を終わったところでした。内心、あー終わった。ダメだったかもと思っていたところで。皆さんがニヤニヤしている事に気づきます。そして、女性の管理職の方が一言、採用!、、、、驚きすぎて思わず、採用!?と聞き返してしましました。もう涙が出そうで必死に堪えたくらいです。当時妻は既に内定をもらっており一足先にペンシルバニア州に帰ってきていたんです。ですんで自分的には1日も早くこちらに来たいと思っていたところでした。

新しい会社のハロウィンで醤油に化けた主

  そして多くの家族同然の友達に別れを告げ涙涙に永遠のアメリカでの故郷、ノースカロライナを去ります。ペンシルバニアに帰ってきて、この新しい日本人がいない環境で仕事を始める訳ですが、それはそれで苦労します。当時自分のエクセルスキルは高い方だと思っておりましたが、上には上がいるもんです。入社して同僚としていたのがPennStateを卒業して1年ほどした女性がいたんです。めちゃくちゃ頭の切れるやつです。今振り返っても奴ほど頭が切れるやつはそういないと思います。そして彼女のエクセルスキルに及ばない自分を発見します。ショックでした。こんな年下に俺は負けるのかと。ただプライドを捨て彼女に教えを乞います。そして自分のエクセルスキルは画然と上達する訳です。この会社にいたのは結局1年ちょいでした。
  いろいろあり、サプライチェーンの資格を自腹でとった後、日本の車メーカーに採用されます。念願の自工、OEMです。メーカーというのはTier3の会社にいた時は神様みたいな存在でした。そのメーカーへ就職できたというのは自分の中でかなりの自信へ繋がりました。そして何よりも嬉しかったのは日本人がいたことです。1年チョイという短い間でしたがホームシック状態になっていたんだと思います。会社でも英語、家でも英語。日本語を話す機会が全くない。新しい会社へ移り環境が激変します。さすが大手。待遇は最高でした。日本の会社であろうとアメリカ現地の法人はかなり待遇がいいです。それは日本の本社と比べても断然いいと言えるでしょう。その現地法人へ現地人枠で採用された自分は日本人と言えどアメリカ人扱いでした。

会社の窓から

  役職はプランナーと余り責任の多い仕事では無かったのですが、自分の中ではメーカーで働けるという事に喜びを持ち日々頑張ります。ただ2年くらい過ぎた後会社内でいろいろ応募するのですが一向に上手くいきません。仕事自体も毎日同じような仕事で面白味がありませんでした。得意なエクセルを使ったプロジェクトを立ち上げ、他部署の業務改善なども行うのですが一向にキャリアが前進しません。ここで日本の方はたかが2年で何をいうんだと思うと思います。それが日本では普通なんです。ただアメリカは違います。よく聞くのは仕事を覚えるのに1年。勝手のいい奴は2年目で効率が上がり上限に達する。そして3年同じ役職の人間は成長できていないというんです。それで自分もチャレンジする訳ですがだめでした。
  会社に対しても不満を抱いていた時に今いる会社からお声がかかります。この会社はアメリカではコンスーマーグッズ界では大手の会社です。そして面接を受ける訳ですが、結果合格。オファーを受け取り、悩んだ末日系会社を辞めることに。その会社へ移り1年が経ちましたが最近さらに昇進してマネージャーをやっております。プライベートでは銃火器や狩猟好きが高じて1年ほど前から本腰を入れてやり始めた YouTubeも面白くなってきています。

大物をゲット。弓で鹿狩り


  さて、YOUはなぜアメリカに来たの?ですが、答えは分からないです。分からないままなんです。なぜアメリカに来たのかはこれから自分がアメリカで何をしていくかによるのではと最近では思います。もし自分が日本で大学に行き、日本で就職していたら今頃何をしていたか。正直ってニートになっていたかもしれません。自分の性格がアメリカに合っていた事もありますが、こちらに来られたことは本当に恵だった思っております。そしてそれをサポートしてくれた両親には感謝し切れません。今ある自分は全て周りの人たちのサポートの上にあると思います。それは自分の底辺YouTubeを毎週見てくださり、コメントくださる方々も含みます。いろんなサポートがある中、それを頂いた自分がこれから何をしていくのか。そしてなぜアメリカに来たかという質問にちゃんと答えられる日が来るように頑張りたいと思います。







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