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摩擦がなくなるということ

出身大学の卒業制作展を見に行った。もう知っている在学生はいないけど、ひさしぶりに卒制展の空気を感じたくなったのだ。卒制には作り手の4年間が、それよりももっと長い期間が圧縮されている。圧縮される過程でかえって膨張したり、勢い余って爆発したり、逆に縮こまりすぎたりすることもある。そういう作品はどれも刺激的でおもしろくて、どこか愛おしい。見ず知らずの大学生の思考を覗き見るような体験は、他ではできないと思う。
そういう圧縮や膨張を見ているうちに、自分についても考える。私はそんなふうに思考をぎゅうぎゅう詰めにしたり、爆発するほどの勢いで何かに突っ込んだりすることがあるだろうか。過去にはあった。学生時代の私は、確かにそうしていた。

あのころは生きづらかったなと思う。今でも生きづらさを感じてはいるけど、学生時代は桁違いにしんどかった。まるで自分の全身にとげが生えていて、世界との間でものすごい摩擦を起こし続けているかのような気分だった。前に進もうとしてはあちこちに引っかかって、引っかかったところが気になって立ち止まって、とげを抜こうとしても抜けなくて、こんな世界のほうが間違っていると言いたくもなって。周りのみんなとは違う、とげまみれな自分がいやでいやで仕方がなかった。
ところが、社会に出て何年か経つと、次第に息が楽になってきた。以前は鋭かったとげが幾分か丸くなったし、引っかかりそうなところがあってもあらかじめとげの位置を把握しておいて、するっと避けられるようになった。これが大人になるってことか、と思った。大人になるのは楽しい。だって、どんどん楽になる。私と世界の間には、もうめったに摩擦なんて起きなくて、なめらかに居心地よくいられる。大人になってよかったと、そう思っていた。

私が卒制を見て感じたのは、膨大な摩擦熱だった。自分の中のとがったところと世界とが擦れたときの痛さも苦しさも面倒くささも、全部をぶつけてやろうという熱がそこにはあった。結局、熱からしか生まれないのだ。自力では耐えられないような熱さのなかでのたうち回るしか、表現するすべはないのだ。

生きやすさを手に入れるということは、とげをやすりで削っていくことだと思う。なめらかに、なめらかにする。世界とぶつかっても痛くないように。摩擦はどんどんなくなっていく。自分が世界になじんでいく。だって、それが大人になるってことだから。
私も私以外の学生だった人たちも、ひとり、またひとり、表現することをやめていく。なめらかになっていく。とげを摩耗させずに維持するのは難しい。その摩擦熱を発し続けられる人だけが、表現を続けられるんだろうと思う。
私にもまだとげはあるか。摩擦はあるか。その熱さに耐える覚悟はあるか。そう自問するために、私は卒制を見に行くのかもしれない。

おいしいものを食べます