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水道橋に住みたい

どこでも住めるとしたら、水道橋に住みたい。JRと地下鉄が乗り入れる水道橋。東京や新宿などの大きな駅からもアクセスが便利な水道橋。大型商業施設や遊園地もある水道橋。いっそのこと家だけでなく、職場も水道橋がいい。水道橋で目覚め、水道橋で働き、水道橋に帰ってきて、水道橋で眠る。そんな生活をしてみたい。
今住んでいる場所や職場からものすごく遠いわけでもない、ありえないほど家賃が高いわけでもない。本気を出せば実現できそうな、それでも私にはまだ少し手の届かない憧れの土地、それが水道橋である。

東京以上に、東京ドームに憧れた

便利で賑やかな駅は東京の中だけでも山ほどあるけど、他のどこでもなく水道橋がいいのは、そこに東京ドームがあるからだ。
地方の田舎町に住んでいた私は、東京にはさほど憧れていなかったけど、東京ドームには憧れていた。私が愛するアイドルたちのコンサートの最高峰であり、人気を証明するひとつの到達点だからだ。
初めて足を踏み入れたのは高校生のとき。上京してからも休日に、あるいは平日に授業や仕事を終えてから、幾度となく足を運んだ。JR水道橋駅の東口から出て橋と横断歩道を渡り、ミーツポートを過ぎたら右手に見える東京ドームシティホール、左手に見える東京ドームホテル、大きな階段状の通路を抜けた先に見えてくる巨大な東京ドーム。何度そのルートをたどっても、初めて訪れたときとまったく同じように、心がぽかぽかと暑くなって汗が滲むような感覚を味わう。
東京ドームの内部は高揚感と気圧でぱんぱんに満ちている。開場時間は大抵まだ夕方だから、天井から太陽光がほんのり透けていて、会場内をやわらかく照らしている。スタジアムのような大きすぎる会場だと屋根がないこともあるけど、私はあのキルティング生地みたいにもこもこ膨らんだ天井が好きだ。広くて高いのに、不思議と包み込まれている感じがする。そうして公演が始まり、歓声が波のように湧き起こると、たとえばクジラのような、巨大な生き物を構成する一部分になったみたいだと思う。客席を埋め尽くすペンライトを「光の海」と形容することはよくあるけど、本当に海のようなのだ。大きな波に流されて、まだ見たことのない遠くのほうまで行けそうな気がする。

海から流れ出て、地上に出て、蒸発する

風圧に押し出されるようにドームを出て、なだれのような人波に流されながら歩くとき、私の足はまだ軽い。帰るのが惜しくて居酒屋に入り、友人と語り合うとき、私はまだ海の中にいる。水中なのにまったく息苦しくなくて、視界はきらきらしていてまぶしいほどで、いつまでもこの巨大な海の一部分でいたいと思う。
終電の時間が近づき、水道橋駅の改札を抜け、黄色いラインの電車に乗り込む。車内には同じように東京ドームから帰宅する人たちが大勢いる。そうして私は、駅をひとつ通り過ぎるたびに、日常という服を1枚ずつ着せられていく。日常。日常日常日常。最寄り駅で降りて自宅まで歩くころには、ダムから放流された水の一部分のような気持ちになっている。ああ、さっきまであんなに心地いい海の上をたゆたっていたのに、もう外側に出てしまった。ここからは自分の足で歩かなければいけない。さっきまで全身を包んでいた非日常は、明日にはほとんど蒸発して形のない思い出になっている。
できることなら水道橋から帰りたくない。きらきらしていてまぶしいほどの、水道橋全体を包み込む巨大な何かの一部分であり続けたい。

本当に水道橋に住んだらどうなるだろう? 家から歩いて東京ドームに行けたら、東京ドームから歩いて家に帰れたら、非日常の世界から戻ってこれなくなるのだろうか。それとも、生活圏内にある東京ドームはもはや私にとって非日常ではなくなるのだろうか。どんなにきらきらした感情も、生活の一部分になったらそのうち慣れてなんとも思わなくなってしまうのだろうか。私が水道橋に対して抱いている期待は、ただの幻想なのだろうか。
幻想でも構わない。慣れてなんとも思わなくなってもいい。それでも私は日常の中に非日常を取り込み、非日常の中に日常を置いてみたい。水道橋を包んでいる大きな空気の内側で息がしたい。そしてそれが実現したとき、自分自身がどう変化するのかを確かめてみたい。
水道橋で目覚め、水道橋で働き、水道橋に帰ってきて、水道橋で眠る。日常の服を着たまま歩く水道橋は、一体どんな景色に見えるのだろう。私はまだそれを知らない。

おいしいものを食べます