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履歴書を棄てる

引っ越しにあたって収納棚を整理していたら、ぶ厚いクリアファイルを見つけた。半透明の緑色のファイルは大量に挟まれた紙束のせいでぐにゃりと歪んでいた。中身は大学生のときに書いた就職活動用の履歴書とエントリーシートのコピー。今はどうなのかわからないけど、当時はすべて手書きだったし、自分が書いた内容を面接前に見返すためにもすべてコピーをとっていたのだ。誰かの何かの参考になれば、と思いながら就活後も捨てずに保管していたものの、誰の何の参考にもならないまま長年眠っていたそれらをすべて処分することにした。
とはいえ、1枚1枚が個人情報の塊である。私はそれらをシュレッダーにかけていった。無印良品で売っている、手でくるくる回すタイプの小さなシュレッダーは、一度にA5サイズのコピー用紙2枚分の厚みしか裁断できない。A4の紙を半分に折ってシュレッダーにかけるとなると、必然的に1枚ずつ裁断することになった。
数えていないけど、100枚は超えたと思う。大学のキャリアセンターで何度も添削してもらい、ボールペンで丁寧に清書した100枚。記入欄はびっしり埋めたほうが熱意が伝わりますと就活セミナーで言われたからか、どのエントリーシートも隅から隅までみっちり書き込まれていた。それが100枚。何者かになりたいという執念の塊。何者にもなれないかもしれないという不安と焦りの具現化。自意識の崖から今にも落ちそうな私がしがみついていた岩。

就活は辛かった。それまでの人生、苦しさは多々あれど大きな挫折は経験することなく、どちらかといえば優等生の部類として生きてきた私にとって、プライドをずたずたにされるような経験だった。頑張っても頑張っても否定され続けた。あのときのことは二度と思い出したくない。だから履歴書もいちいち読み返す気はなかったんだけど、視界にちらっと入ってくる文章は、とても自分で書いたとは思えない内容ばかりだった。
「私は行動力があります」。そんなものはない。
「私は提案力があります」。全然ない。
「私は人が好きです」。たいして好きじゃない。
「私にはこんな熱意と、こんな野望があります」。あるわけない。
当時、書類選考はよく通ったのに、一次面接で落とされ続けた。人と対話をするのが苦手だからだ、文章を書くのは得意だけどコミュ力が低いし、質問に合わせて臨機応変に話すことができないからだと言い訳をしていたけど、今ならそうではないとわかる。だって、外面のいい言葉ばかりを並べたその紙の中に私はいない。ぺらぺらの書類でいい学生だと思ってもらえたところで、いざ対面すると本当の私が顔を出す。そこには別人がいる。
嘘を書こうとしたことは一度もない。当時は一生懸命に自己分析をして、自分の長所を引きずり出してきたつもりだった。自分にはちゃんと行動力や提案力があると思っていたし、それらにまつわる具体的なエピソードもしっかり書き添えた。でも本当は、私には何もなかったのだ。ないものは分析のしようがない。分けても分けても何も見つからないのに、そこに何かがある気がして、優秀でリーダーシップがあって御社の役に立てる何かがあるはずだという希望を捨てきれなくて、紙の上にそういう私を描いた。何度も何度も描いた。

シュレッダーのハンドルを回すたびに紙はじゃりじゃりと細くなり、架空の私がゴミ箱へと消えていく。現実の私だけが生き残る。
数十分かけてすべてを裁断し、ひん曲がった緑のファイルもそのまま捨てた。収納棚には100枚分のスペースが空いた。
私の就職活動は、大学4年生の秋ごろになってようやく終わりを迎えた。小さな会社に内定をもらい、その後一度の転職を経て現在のキャリアを歩んでいる。最終的にどうやって内定をもらったのかはよく覚えていないけど、今の仕事は大好きだし、結果的にこれでよかったと思っている。
今も、私には何もない。少しは仕事ができるようになったけど、履歴書映えするような長所や輝かしい経歴はさっぱり持ち合わせていない。それでもあのころと違うのは、自分には何もないということを認められるくらいには強くなれたというところだ。別に、何もなくてもいいんだよな。何もないなりに何かはあるんだから。何もないってことは、つまり、その容量にこれから何かを詰め込んでいけるということでもあるんじゃない? そんなふうに前向きに考えられる私って、じゅうぶん「何かがある」んじゃない? 当時の私に語りかけるようにそんなことを思いながら、ゴミ箱から溢れそうになった紙屑をぎゅっと押し込んだ。
二度と思い出したくない。それでも、何者かになりたくて執念深くもがいていたあのころの、間違いだらけの見栄っ張りな私のことを、ちょっと愛おしいとも思う。今の私ならどんな履歴書を書くだろう。できることなら二度と書きたくないけど、今ならもう少しそのままの私を描けるような気がしている。

おいしいものを食べます