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ぼっち・ざ・ろっく関係のメモ1

 ふせったーに投稿していたものを、twilogサービス停止での参照困難性発生などがあって今のうちにとほぼベタ移植する。下記の記事は、2022/12/26に書かれたものだ。TVとオンライン配信で、『ぼっち・ざ・ろっく!』の#12が放送された二日後ですね。

ぼざろ怪文書。大量の青臭さが含まれます。見たな?


邦ロックというかおおよそ洋の東西を問わず音楽に触れたことがない(といっていい)タイプの人間によるアルバム『結束バンド(結束バンド)』の所感

5.ギターと孤独と蒼い星

 作中でも「最初に後藤ひとりが作詞した曲」。何か歌詞にしてみて、と言われて、外界から閉ざされた自室の押し入れで、一人きりでギターの演奏を続けてきた(日常はどんなだっけ、と思い返して耐久性が自慢のエリクサーの弦を張り替えることが出てくるくらいにはギターしか触ってなかった)ことだけしか思いつかずにそれを叩きつけたとしか言いようがないリリック。

 外界の情報量が多すぎて外に出るだけで発狂しそうになることから始まる歌詞。季節の変わり目の服は何を着ればいいんだ?というフレーズを後藤ひとりに向けると、オールタイムピンクジャージで通しているのは、センスの問題──自分のセンスと外で許される姿の折り合いをどうつけたらいいのかわからないことか。少しひねると春秋を見失うのは、中間点が見当たらないことへの嘆き節も重なっているのかもしれない。
 どうにか外へ目を向けて、どれだけ世界のことを聞き取ろうとしても、物理的に引きこもっていることや臆病さ以上に、病的なフラッシュバックと加害妄想癖(あれはもう気をつけるとかつけないとかいう問題ではなく、比喩を超えて病的な領域にあると考えていいと思う)があるので、後藤ひとりには「世界の音が聞こえない」。少なくともこの詞を書いている時点では。

 歌う、鳴く、などの声を出す行為は(主体「後藤ひとり」としては)当然、ギター演奏のアナロジーである。以降の曲でもたぶんそれはそのまま繰り返されている。

 ほぼこの歌でのみ、星(蒼い星、地球)は「世界」のアナロジー。セカイ系の通俗的解釈そのまま。この時点での後藤ひとりには圧倒的に「自分以外のもの」を理解することが出来ないので、自分と「自分以外のすべての世界」という対立項が立ち現れる。だから、世に問う、という話がスケールに関わらず「星に」という表現にフィットする。自分の認知の狭さに強烈なコンプレックスがあるが、それをどうすることもできない。

 星へぶちまけた「歌」=ギターヒーローの配信? おそらく。後藤ひとりにとって「ギターヒーロー」は自分であると同時に、結束バンドにサポートギターで入って大失敗した経験以降は、自分には耐えられないくらいに光り輝くものになっていた?(そんなに光るな、ダサい私の影が濃くなる、はこの話か?) だからこそそこと繋がって「ありのままなんて誰に見せるんだ」という言葉が出てくる。

 推定、後藤ひとりにとって、ギターヒーローとして得た名声は、結局のところ「そんなのは私のものではない」という乖離がある。自分はギターヒーローだという矜持はあるが、特にアニメ一期では妄想の中ですらそれを持ち上げる描写が出てこなくなる。

 やはり私小説。最後のくだりは、スターリーでの一度目のライブ(字や絵に例えるならば殴り書きのような音すら出せなかった)と、二度目の演奏であるオーディションを直前に控えて、逃げたいはずなのにそれをしないのはなぜか、という自問に対してそのまま絞り出した答え。

 自分にはなんの価値もないことはよく知っている。
 それでも、何者かになりたい。

 そして今度は、ウェブ越しに全世界へ、ではなくて、生身の「半径300mmの」自分を、スターリーというハコに晒す(星へぶちまける)という、字は同じだが途中とは意味がだいぶ異なる叫びで締めくくられる。

 総じて、この曲を演っているオーディションの最中に、「この四人でちやほやされたい」という思いを抱えるまえの歌とおもう。

1.青春コンプレックス

 おそらく少なくとも「ギターと孤独と蒼い星」を受けている歌詞。「歌」がギター演奏ならば、「雨」や「嵐」、あるいは「雷」は莫大な情報量のアナロジーであるはずだ。

 それは「ギターと孤独と蒼い星」の歌詞でいう「突然降る夕立」がなんのことなのか、「傘もない」のは何を意味しているかという想像からもある程度汲み取れる。どこかの誰かの反応が、後藤ひとりにとってはいきなり降り出す雨のように(他人から見た後藤ひとりがそうであるように)どのようになるかわからない。だから適切な反応(傘をさす)もできない。

 そして、劇中の時系列を考えたなら、これ作詞したのは少なくとも台風ライブよりあとになるから(新曲として一曲めで「ギターと孤独と蒼い星」、二曲目につくった新曲として「あのバンド」がリストに上がっていたからには、あそこで結束バンドが持っていたオリジナル曲はあの二曲だけと考えるのが妥当じゃないかという)。
 台風ライブの日、吹き荒れる嵐は圧倒的なノイズ(莫大な情報!)で、本来そこに来るはずだった人たちを遠ざけたもので、そして、あの一曲めを大失敗させた大きな原因だった。世界のわからなさの象徴。なぜそこにあるかはわからないけれど、力強くひどくうるさく吹き荒れて身体を濡らす、抵抗できないものの象徴。

 歌詞は過去形から始まる。暗く狭い場所で世界を恨んで愛を欲していた、は言うまでもなく、結束バンドのメンバーたちに出会うまでの後藤ひとりの境遇。そして天候が「世界のわからなさ」の比喩だとすると、「濡れるのが好き」で「怯えるフリをして空が割れるのを待っていた」とは何か。後藤ひとりの自認としては、本当になにもわからないから「曇った顔」しかできない自分は、「雨」に打ちのめされている立場に甘えている…という自責があったように見える(それは実際には、本当に病的なものだったし、作中では人間ではない身体でとんでもないリアクションするくらい彼女にとって差し迫った問題だったわけだが、自認は別の話)。
 悲しい歌、明るい場所、はそのまま、作中で語られる青春コンプレックスの話(だから、作中の描写を見ている読者には、ここがそのまんまタイトルに対応してるんだなとわかる)である。それでは「深く潜る海の底」は何か。後藤ひとりが海の底に見た「月」はなんだったのか。

 さんざ言われていた話だが、問題になるのは虎だ。
 「猫背のまま虎になりたい」。『山月記』だ。収録されているのは、一般的には高校現代文1。予習復習はきちんとするタチの後藤ひとりが、高校入学して数ヶ月という状況なら、読んだばかりで印象深く残っていても不思議ではない。臆病な自尊心をふとらせた結果、世とのまじわりを絶ち、虎に成り果てた詩人と、友人が再会するのは月光のもとである。月、虎、「誰にも言わないはずだった」、そして「奔放凶暴な本性」という取り合わせから想起されるのはやはりそこだ。
 海の底は静謐。雨のざわめきも波のさざめきも届かない場所、「深く潜る」は「深く被るフード」ともかかっている。自分の抱えているものを周囲に打ち明けたくない(自分のあさましさを周囲に悟られたくない)というかなり直接的な比喩表現。
 だが、その一人で静かにいたい、知られたくないという思いであり、裏返しの自分には知られる価値なんてないという思い込みを破った「歪な線」は何か?ということ>おそらくこれは『星座になりたい』で受けられるライン。関係のないものを結びつける想像上の線、願望の線、一緒にやりたいという願いの線。だから「交わるカルテット」で「革命を成し遂げてみたい」という結論に行く。

 革命とは?弱いものが支配的なものを打ち倒すこと。打倒されたのは何か?台風ライブの日の嵐。台風の影響で冷え切ったお客さんを、沸かせることができた。それは自分で見て、きくりに言ってもらって、虹夏にも認めてもらったこと。あなたのロックを聞かせてという言葉、はじめて誰かから、ギターヒーローとして聞いたリクエストじゃなく、後藤ひとりとして聞いた願いの言葉。それを引き出した「あのバンド」の演奏。

 自分の中にある臆病な自尊心が嫌だった、でもそれを間近で見て、それでもいい、あなたがやって、と、虎になったっていいと言ってくれた人がいる。四人でやりたい。後藤ひとりもいる結束バンドの四人でやりたい。ひとりではあそこに立てなかった。ひとりではあそこで「吠えて」みること、ギターを鳴らすことすらきっとできなかった。それでいて、この四人でなら、世界のわからなさ=嵐=台風にも負けなかった、人を動かす嵐になることができたのだから。

 台風ライブのときの心情をそのまま歌ったものではないかという気がする。やっぱり私小説。

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