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ぼっち・ざ・ろっく関係のメモ2

 前の記事の続き。同じく、ふせったーに投稿していた長文のベタ移植。個人的に埋もれさせると、前に自分が何考えていたのかわからなくなって怖いので。

ぼっち・ざ・ろっくの学園祭ライブの話、
あるいは山田お前何考えてやがるんだ


 結局演奏されないで終わった、学園祭ライブセットリストの三曲目は何だったのか?というのは誰しも気になるところだと思うが、僕としては「フラッシュバッカー」を推す。これには一応、それなりの理由がある。最終話後に公開された曲だからそれっぽい…というのももちろん強い。〆に持ってくるにはよさそうな曲調(実際、アルバムの実質最後の曲として置かれている)だということもある。だがそれ以上に、推している説とマッチするからというのが大きい。

 後藤ひとりは私小説家である。これは原作ほうのセリフだが、後藤ひとりの作詞は「実際にあったことをかっこつけて言ってるだけ」である。アニメ版のスタッフはかなり原作に愛着を持っているように思えるので、関わった人たちへのオーダーとしてこれを提示した可能性はそれなりに高いと思う(前の投稿で私小説家じゃないかと言い出した理由もこれが大きい)。

 では、学園祭ライブで選ばれた三曲は、いったいどんな「実際にあったこと」を落とし込んだものなのだろうか?

 結論から言うと、「忘れてやらない」「星座になれたら」、そして三曲目を「フラッシュバッカー」にした場合の共通点は、結束バンドじたいをネタにした歌詞であることである。

11.忘れてやらない

 結束バンドに出会う前(ほんとうに直前)の心情を元ネタにした曲。青春は自分に似合わない、教室の中でも切り取り線で区切られたなかにいて、劣等感(言うまでもなく)と優越感(自分はギターが弾ける人間なんですよ)を抱えた後藤ひとりの心情がそのほとんどを占めている。

 だが、そうでない成分が確かに混ざりこんでいる。セリフのように表記された二箇所の歌詞のうち、一箇所めの「作者の気持ちを答えなさい」はよくある(とされる)国語の設問で、これは定型句。問題は2つ目。「わかるわかる、同じ気持ちさ」を口にしているのは、主観を「たじろが」せているのは、誰か?

 ところでアルバム『結束バンド』に収録されたカヴァーを含む14曲のうち、8トラック目までと9トラック目以降では、ある違いがある。

 一人称である。

「青春コンプレックス」から「カラカラ」までの8曲は、一人称が「」で統一されている。対して「小さな海」から「フラッシュバッカー」(そして「転がる岩、君に朝が降る」)までの6曲で使われているのは、「」だ。

 この差は何か?「私」と「僕」の差はどこにあるのか?

 答えはおそらく、「僕」には常にもうひとり、「」が一対であらわれることである。
 たとえばカバー曲として収録された「転がる岩、~」を見てみれば、あきらかにそこには「君と僕」の構図、「君を見ている僕」という形があり、それは結束バンドオリジナル曲の「僕」のそれにも引き継がれている。

 ところが、「忘れてやらない」だけは、この中6曲のなかでもさらに特異である。「君」が出てこない。変なのだ。浮いている。ちはやぶるといって神が出てこないくらいおかしい。だから、むしろここは逆に考えよう。語られていないだけで、あまりにも自明に「君」は「忘れてやらない」にも登場しているのだと。

 つまり「わかるわかる、同じ気持ちさ」とどんどん踏み込んできた誰か、風のようで、つまり何事かを動かす力があり、おいていかれそうなほど勢いがあって、「僕(=後藤ひとり)」が「必死に喰らいついて」いる誰か。そして、「始める今日」で後藤ひとりの「終わりの今日」をもたらして、彼女の何もかも変えてしまったのは誰か? アニメでの後藤ひとりが、「運命や奇跡」「僕にはもったいない」、二度とないと決意してわけもわからないまま一歩踏み出すきっかけになった人物は?

 決まっている。伊地知虹夏しかいない。

 僕は何を「忘れてやらない」のか。それは、(インタビューで過去ネタになるとか妄想していた)ひとり飯や、「鐘の音」「窓際に積んだ埃」「教室の匂い」、公園で虹夏に捕まる前(いや、捕まった後も続いてたのだけれど、それはそれとして)のひたすら辛い過去を忘れないということでもあるし、「いつか死ぬまで何回だって」それを笑い飛ばせる一緒にいる誰か=君=伊地知虹夏との出会いのことでもあるのだ、と思う。これは。

 そして、ある意味これが大事なのだが、山田リョウは虹夏がひとりを拾った経緯を知っている。つまり奇跡のような偶然で、ありえないほどずけずけと、"あなたギターやってる人だよね!"と思いっきり踏み込んでスターリーに引っ張ってきたということを知っている。知っているから、この歌詞を見て「ああ、虹夏に引っ張ってこられたときのことだな」と思いつくことができる。

12.星座になれたら

 12曲めというのも運命的であると思う。意識してたら笑う。

 12と言って何をイメージするだろうか?十二支、十二使徒、などあるが、まっさきに思いつくのは時刻(1時、2時)と月(1月、2月)ではないだろうか?

 歌詞を見てみる。時刻が二度出てくる。「もうすぐ時計は6時」と「もうすぐ時計は8時」。もうすぐ、ということは今はそれぞれ、5時台と7時台だということになる。

 大胆に、憶測を飛躍させてみる。実はこの「5時」「7時」は、それぞれ「5月」「7月」の比喩表現である。いや別に闇雲に言っているわけではない。一応根拠がある。

 6時前=5時台。歌詞で「僕」は、帰り道で星を探している。見つかる星は一つきり、そして「何億光年も先」にいる星は「君」である。僕は君を羨む。「いいな、君は、みんなから愛されて」。けれど「君」から帰ってくる言葉はこうだ。「いいや、僕は、ずっと一人きりさ」。

 探していた理由は…と思うと「集まって星座になれたら」という願いがそれに応えている。そして不思議なことに、「僕がどんなに眩しくても」つないだ線を解いて行ってしまわないでください、と願っている。妙な話だ。後藤ひとりの作風にもれず、この歌の「僕」もまたそうそう光るようなものではないはずなのに。なぜ「星=君」は「僕」を眩しく思うのか?

 では6月前=5月ごろの後藤ひとりは何をやっていたか? 結束バンドと出会った。それから何をしていたか? ギターボーカルを探していた。けれど探し回っても、悲しいかな交友関係が死んでいる後藤ひとりにはろくに見つからない。いや、一人みつかった。それも自分の影が疎ましくなるほど人から愛されている相手、憧れで輝いて直視できないような陽キャ、喜多郁代。

 勇気を振り絞って声をかけてて、驚くべきことにうまくいくが、実は結束バンドから逃げて、ボーカル探す羽目になった原因そのもの張本人であった喜多幾世は逃げ出そうとする。なんと彼女はギターが弾けなかったのだ。

 後藤ひとりはそれでも、一緒にやりたい、ギターならできる私が教える、と必死に喜多幾世を引き止める。それはどうにかうまくいって、まあ紆余曲折悲喜こもごもありながら、結束バンドは始動することになる。

 こうなったら、「星=君」が「僕」を眩しく思った理由は簡単だ。「君=喜多幾世」にはギターが弾けなかったから。おそらく生涯初めて、後藤ひとりは"あなたはできるだろうけど私は無理だから、ごめん!"という種類の慟哭を聞いたのだろう。それはどれだけ印象深いものだったのか。

 どうやら同じような構図になるように見えないだろうか?
 箇条書きマジック?いいじゃん。

 では8時前=7月ごろの結束バンドには何があったろうか? これはわかりやすい。アニメ8話の台風ライブだ。では、台風ライブで後藤ひとりが見たものは何か?「変われるかな、夜の淵を、なぞるような、こんな僕でも」と言い出すほどの出来事はあったろうか?

 あった。一曲めが大失敗に終わって客が引いてしまったあと。自分たちに"見て損した"という目が向けられたとき。これで終わりかもしれないと思わずにはいられなかった(いつの日にか来る別れを思わずにはおられなかった)とき。"私たち、まだまだだ"と悟っても、それでも、とエフェクターを踏みしめて、強く踏み出した夜。

 遡って5月、オーディションの日、"今は四人でちやほやされたい"という願いを自覚した後藤ひとりは、台風ライブでの失敗で、(あるいは、自分だけならどうでもいいけど)"私たち4人"では終わりになりたくないという渇望を自覚したはずだ。

 ところで一般に、星座は「4つ以上の星を架空の線で結ぶことで構成される」ものですね。4人はバンドを組んだ。そこにいる。だから当然、(自信は持てないけれど)「何億光年離れたところ」にはもういないことになる。

 実際、PVでは結束バンド四人のイメージカラーの線が画面を縦横に走って結び合う演出がある。だからこれは、実際に後藤ひとりの心情としては(前半は喜多郁代のことを歌ってはいるものの、結論としては)結束バンド全体を歌った歌なのではなかろうか。だからこの場合、歌全体での「君」は伊地知山田喜多の三人を指していることになる。だって、そもそもバンドをやってる人、明るい人、できる人、である伊地知虹夏と山田リョウだって、後藤ひとりにとっては遠い「星」に違いなかったんだから。

 前半で喜多郁代のエピソードが採られているのは、後藤ひとりがはじめて能動的に、結束バンド(星座)のために行動したときの思い出だからだろう、と当てはめることもできる。

 じゃあ喜多郁代だけのことを歌った歌じゃないんじゃないの? という話になるのだが、ここで面白いのが、喜多郁代からすると、「なんかすごくギターが弾けて、自分にはふさわしい場所じゃなかった結束バンドに居場所があった」「バンドのために行動していた」後藤ひとりが、前半の「星」に相当するように見えるということ。

 そして後半では、台風ライブの大ピンチを救ってくれた後藤ひとりはやはり「星」に見えてしまって不思議はない。

 この歌のボーカルは当然喜多郁代であり、ここに妙味がある。前半で「君」が「僕は」と語りだすように、後藤ひとりと喜多郁代の立場が相互に入れ替わるような歌、と、ふたりの事情を知っている第三者からは読むことができるのだ。

 そしてこの歌詞に曲つけたのは山田であり、山田は当然、喜多郁代が結束バンドに出戻りしたり、苦しみながらギターの練習をしていた光景、後藤ひとりに向けている感情などを傍からよくよく観察している。

 つまり、この曲を「結束バンドのうち、喜多郁代のテーマだ」と認識するだけの理由が、山田にはあるということだ。

13.フラッシュバッカー

 夜の光景ばかりを扱う後藤ひとりの作詞には珍しく、夜明けの光景を歌ったリリック。それだけに、何かすごい変化でもあったのか? 最終話、早朝に家を出る風景と重ねてるのか? などと勘ぐりたくなる。人によっては"結束バンドがメジャーに行った後作ったんじゃないか"などという。

 だがこの歌詞、実はもっと身も蓋もない内容ではないのだろうか?

 後藤ひとりはいうなれば私小説家である。起こったことをそのまま、なにかそれぽく飾って歌詞に仕立てる名人とも言える。ではこれは、何を粉飾した歌詞なのだろう?

 もしやこれ単純に、徹夜明けの情景を歌い上げた歌なのでは?

 じゃあ作中で、後藤ひとりが徹夜するようなタイミングはあったか? 何度かあった。が、他の歌詞を加味すればいつの話かはかなり絞り込める。「いつかノートに書いたあの言葉たちは、きっと、泡になって消えた」。

 そう。作詞やってねと振られて煮詰まりきってグチャグチャになっていたとき。どんな歌詞ならいいのかと煩悶していたとき。第四話。あのときなら、悩んで悩んでボツにして書き直して気づいたら夜明け…みたいなことが起こっている。自然な流れだ。

 ほかの歌詞を見てみれば、これはもうそのまんまだ。君は「僕」に問いかけてくる。「透明なこの身体は何色に成れるの?」「ぼやけたままのフォーカスじゃ、君のホンモノは写せないよ」。
 詳しくは本編を確認してほしい。山田は後藤ひとりに"好きなように書いてよ"という。"バラバラな個性が集まって、それが結束バンドの色になる"と。

 このアドバイスを受けたその日の夜、きっと後藤ひとりは貫徹で、思い切り自分の色を出した歌詞をかきあげて、山田に見せたのではないだろうか。"誰かに深く刺さる"と評した山田は、もちろん気に入ったのではないかと思う(実際結束バンドの曲は…メタな事情を抜けば…すごいクオリティだし、乗り気でなければ山田はここまでやれないだろうし)。

 ここで山田から受けたアドバイスは、のちのちの後藤ひとりが書く歌詞に大なり小なりと顔を出す。自分でもいいからマジでやろう、というような言葉は、後藤ひとりが何者かは大きく変えることなく、ただ前に出てみようと思わせるくらいの力はあったようだ。山ぼ。

 当然この歌詞を見た山田は、"これは自分のことを狙ってる歌詞だなぼっち"と認識できたはずである。それはもう当たり前のように。

<ということで>

 じゃあ「ぼっちの高校の文化祭に出る」と聞いた瞬間から練り始めて、この「ぼっちが"僕"で虹夏、喜多ちゃん、山田を"君"と呼んで呼びかけている」三曲を繋いだセトリ作った山田は一体なにをどう考えてたんだよ。怖いよ。感情が重いよ。どんな感情ですか?

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