さちうすのクイズメモ#5『佐賀の七賢人』
クイズにおいてよく問われるものの中に「名数」というものがある。「世界三大料理」や「五大老」などのように、あるグループのものをまとめて結びつけて呼称するものである。クイズにおいてはフリとしてよく用いられるのみならず、多答問題にもよく使用されるためMO(まとめて覚えよう)の対象とされることが多い。また、アメリカの州や都道府県と異なり数字が小さいものに関しては覚える労力も小さいためある意味コストパフォーマンスも良いと言える。しかし、このような名数は非常に多く、全てを抑えるのは大変である(クイズ参考書の中ではこの名数だけを集めて1500円もの高値で売りさばいているものがあるらしい…)。個人的にはこれについてはNotionというアプリがデータベース作成に有用で、他人と共有もできるので名数や日付問題のデータベースを構築しておけば良いのでは?と思っている。信頼性や編集合戦などの問題はあるものの、使い勝手は良いと思っている。もし一緒にやっても良い、と言う人はTwitterのDMに一報ください。
さて、今回はそんな名数でも比較的マイナーと思われる、「佐賀の七賢人」について取り扱っていこうと思う。
1.佐賀の七賢人
佐賀の七賢人とは
まず、佐賀の七賢人に挙げられている人物は江戸時代末期~明治初期に活躍した人物である。当時は肥前国佐賀藩であり、いわゆる「薩長土肥」の一角である。ただ、政治的にめざましい活躍をした薩摩・長州・土佐に比べ知名度の高い人物が少ない。せいぜい大隈重信が小学生レベルでも知っているくらいだろうか。それがなぜ並び称されるかというと、技術立国であったが故とされる。アームストロング砲などの生産で維新雄藩に軍事的援助を行ったことが大きいということだ。幕末の動乱に直接関わらなかった有為な人材はその後、明治政府の運営に活躍する。そのためいわゆる官僚的立場で実務に当たっており知名度が低いのかもしれない。
そんな佐賀の七賢人という概念がいつ生まれたのかについて、wikipedeiaには昭和56年(1981年)頃との記述があるが、おそらくこれは不正確である。インターネットで他の情報を検索すると大正時代に佐賀の学校教育における教訓書・修養書として『葉隠』の一部を抜粋したものに郷土の偉人の逸話を加えた『葉隠の雫』(古賀説一編)という書籍が大正9年(1920年)に発刊されており、その中に「七賢人の集会」と題した内容があるということが判明した。おそらくこれが初出であろう。佐賀県においては一定の知名度があるようだが、やはり県内の地域差はあるようで七賢人すべてを把握している人は18%。一方で一人も知らないという人も18%だったというから、「佐賀の七賢人」と言われてピンとくる人の割合はやはり多いと言うべきであろう。ちなみに当然知名度1位は大隈重信だが2位は鍋島直正らしい。さすがは地元のお殿様である。
では、それぞれの項目について見ていこう。
鍋島直正
鍋島直正(なべしま・なおまさ)は肥前佐賀藩の10代目藩主である。閑叟(かんそう)の号でも知られる。当時の佐賀藩は幕末の諸藩にありがちな財政難に陥っていた。それを表す凄まじいエピソードがある。父の隠居に伴い藩主となった直正は当時江戸藩邸にいたため国元に帰ることとなった。しかし出発直後思いもよらない事態が発生する。藩に借金をしていた商人が一気に藩邸に押し寄せ借金返済を督促したのである。この対応に直正は進行を停止する羽目になる。藩主が商人に移動を中止させられるなどという屈辱を味わったのである。
佐賀藩の場合は加えて、長崎警備の負担もあった。文化5年(1808年)、オランダ国旗を掲げたイギリス軍艦フェートン号が出島に侵入。オランダ商館員を人質に薪・水・食糧を要求する事件が発生。結果的に大きな被害は出なかったものの当時の長崎奉行が切腹する騒ぎとなり佐賀藩は厳しい警備体制を敷く必要が生じてしまったのである。
直正は藩主となった後、隠居した前藩主や側近の保守勢力を押さえながら藩政改革を進めていく。倹約による財政再建と同時に技術革新を目指し、藩校・弘道館の拡充や西洋技術の導入を行う。この中で生まれたのが「佐賀の七賢人」たちである。
明治維新後は北海道開拓使初代長官となった。諸般の事情で蝦夷地に渡ることはなかったが、倒幕運動の報奨金の一部を割いて佐賀藩の民を蝦夷地に移住させ開拓に当たらせたことや、満州開拓などの様々な先見の明を持った提言を行った。明治4年(1871年)、病没。
島義勇
島義勇(しま・よしたけ)は「北海道開拓の父」の異名を持つ。先に挙げた藩校・弘道館、その後佐藤一斎、藤田東湖、林桜園ら全国の諸賢に学び、安政3年(1856年)には直正の命で箱館奉行に近習として出向し、蝦夷地を探索。その際の記録を『入北記』にまとめている。この功績が評価され、明治2年(1869年)に北海道開拓判官に就任する。島はそれまで蝦夷地の重要拠点とされていた箱館に代わる新都市として札幌市の建設を担当する。しかし、蝦夷地における商業制度である「場所請負制度」について既得権益を持つ請負人や鍋島直正の後任として北海道開拓使長官になった東久世通禧と対立。半年ほどで解任されてしまう。その後、初代秋田権令(県令と同義、県令は政府における官等四等官相当、権令は五等官相当)に任命され八郎潟干拓政策を打ち出すが、こちらも半年ほどで退官。その後、明治7年(1874年)後述する江藤新平と佐賀の乱を起こすが敗れ、同年斬罪梟首。
佐野常民
佐野常民(さの・つねたみ)は日本赤十字社の創始者として知られる。全国に遊学し大いに知見を深め、佐賀藩精煉方頭人として日本初の蒸気機関車模型を完成させるなど活躍。文久3年(1863年)には幕府注文の蒸気鑵(ボイラー)を製作する。転機となったのは慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会への参加で、会場で国際赤十字の組織と活動を見聞する。明治に入ると、日本初の官設博覧会である湯島聖堂博覧会の開催やウィーン万国博覧会への参加など、博覧会を通じた日本の近代化に貢献し、「博覧会男」の異名を取った。明治10年(1877年)の西南戦争を契機に博愛社を設立。明治20年(1887年)に日本赤十字社に改称すると初代社長に就任している。また、明治16年(1883年)には大日本私立衛生会(後の日本公衆衛生協会)を発足、会頭に就任している。明治35年(1902年)、死去。
副島種臣
副島種臣(そえじま・たねおみ)は枝吉神陽の弟として生まれ、副島家の養子となった人物である。明治維新後に福岡孝弟と共に「政体書」の起草に関わる。第3代外務卿に就任し、マリア・ルス号事件(ペルー船籍の同船に乗船していた清国人を奴隷と判断し、人道的観点から解放、清へ送還した事件。日本が国際裁判の当事者となった初めての事例。)の解決や日清修好条規の批准に尽力(改正も目指したが実現せず)。しかし、明治六年政変で下野。明治7年(1874年)に愛国公党(後に1890年に設立される同名の政党とは別。日本で初めて「愛国」を名称に関した組織となるが、その後構成員がそれぞれ別の活動に移り自然消滅する)を結成。板垣退助と共に『民撰議院設立建白書』を政府に提出する。晩年は明治天皇の侍講を務め、明治38年(1905年)、病死。
大木喬任
大木喬任(おおき・たかとう)は明治の六大教育家の一人に数えられる政治家である。明治4年(1871年)に民部卿、文部卿として学制を制定。明治9年(1876年)には司法卿として神風連の乱・萩の乱の事後処理に当たった。戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈重信と対立。戸籍法の制定に尽力する。しかし、明治25年(1892年)に修身教科書秘密漏洩事件(大木が修身教科書の検定状況を澤柳政太郎(後に澤柳事件にも関わる)に尋ねたことが曝露された)により引責辞任。明治32年(1899年)、死去。
江藤新平
江藤新平(えとう・しんぺい)は「近代日本司法制度の父」と称される政治家。民法会議を主宰し民法典編纂事業に取り組み、その後は初代司法卿として日本近代の司法制度の礎を築いた。しかし、征韓論争に敗れて西郷隆盛らと共に下野。翌明治7年(1874年)には民撰議院設立建白書にも署名するが、故郷で発生した氏族の反乱である佐賀の乱の指導者にまつり上げられた結果、捕縛され処刑された。
大隈重信
大隈重信(おおくま・しげのぶ)は第8代・17代内閣総理大臣も努めた人物で、早稲田大学や日本女子大学、聖路加国際病院の創設にも関わった。政党政治の発展にも尽力し、日本初の政党内閣を組閣。板垣退助を幕下に迎え隈板内閣と呼ばれた。第2次内閣では中国に対し対華21カ条要求を突きつけた。大正11年(1922年)に病死すると、前例のない「国民葬」が執り行われた。
「佐賀の八賢人」枝吉神陽
副島種臣の兄である枝吉神陽(えだよし・しんよう)は佐賀の勤王運動を進めた中心人物であり、嘉永3年(1850年)には楠木正成・正行親子の忠義を称える祭祀を執り行う名目で「義祭同盟」を結成。ここから後の佐賀の七賢人をはじめとする多くの人材を輩出したことから、「佐賀の吉田松陰」、また水戸の藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された。コレラに罹患し文久3年(1863年)に死去したため明治の世を見ることはなかったが、彼を賢人の列に加え、八賢人と称することもある。
2.その他の七賢人
鋳立方七賢人
鋳立方七賢人とは
佐嘉神社にある看板にはその他、「御鋳立七賢人(鋳立方七賢人)」と呼ばれる人物についても言及がある。韮山の反射炉を視察した後、佐賀にも反射炉建設を行うべく結成されたプロジェクトチームである。
本島藤太夫
反射炉を建設すべく鍋島直正の命を受け、韮山に赴き、江川太郎左衛門英龍に師事。反射炉や大砲に関する知識を伝授され、その後佐久間象山にも教えを請うて後、帰国した。その後、長崎港の砲台の増築など佐賀藩の軍備増強に尽力し、維新後は佐賀百六銀行の経営指導にあたった。
杉谷雍助
名は孝賛。字(あざな)は元譲。蘭学者として伊東玄朴に学ぶ。この時、一冊の書物に出会う。オランダのウルリッヒ・ヒュゲーニンという軍人が記した『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』という書物である。
https://tetsutohagane.net/articles/search/files/73/10/KJ00002715676.pdf
これを蘭学塾の師弟で翻訳したことで杉谷の人生は動き始める。佐賀に帰国した杉谷は鍋島直正の命により大砲鋳造プロジェクトのコアメンバーに指名される。反射炉の建造、大砲の鋳造には数多くの困難が伴うが粘り強く作業を進め、安政1年(1854年)、ついに鋳造に成功した。
田中虎六郎
本島・杉谷を支えた中心人物として記されているのが田中虎六郎である。彼の事績はインターネットのみでは詳しく調べることができなかったが、漢洋両学に通じ、助言や考察を加えたとあることから理系の知識人であった可能性がある。専門用語などは直訳しても意味が通らないことが多い。これを実践的とするために考証を行った、ということだろうか。時間がなく手に取れていないが、多久島澄子氏が「佐賀藩御鋳立方田中虎六郎の事績」というそのものズバリな論文を下記の本に寄稿している。興味のある方はご一読いただければと思う。
谷口彌右衛門
鋳造を生業とした鋳物師としてチームに参加していた谷口彌右衛門は西谷口家第10代当主である。佐嘉神社に掲げられている看板には次代は谷口鉄工所を創業したとあるが、これは東谷口家第11代当主・谷口清左衛門(清八)との混同である。谷口家は第4代から東西に分家している。ただし、この東谷口家も第10代・清次、第11代・清八が大砲鋳造に少なからず尽力しており、このプロジェクトが佐賀藩を上げての一大事業であったことがうかがえる。
橋本新左衛門
八代目・肥前忠吉とした方が通りが良いかもしれない。刀鍛冶の一族・肥前忠吉を襲名した人物であり、鉄の溶解には彼らの協力が不可欠であった。
馬場栄作
佐賀藩随一の算術家と称された馬場栄作もこのプロジェクトに参加していた。和算を修めた馬場は幕府に先駆けて暦を計算し、その精度が非常に高かったという逸話が下記の新聞記事にも取り上げられている。その計算力は緻密な設計を必要とする大砲製造に一役買ったのは想像に難くない。
田代孫三郎
上記6人のプロジェクトチームを影で支えたのが田代孫三郎通英である。佐賀市地域文化財データベースサイトの「御鋳立方の七賢人」の説明では若干添え物のように記載されているが、ともすれば野放図に予算が拡大し空中分解しそうな巨大プロジェクトを統括し、予算を獲得する苦労は研究者なら一度は味わっているはずである。彼らの伸びやかな挑戦を支えるべく最も苦労した人物といっても過言では無いのかもしれない。
精鍊方七賢人
精鍊方七賢人とは
佐嘉神社にある看板に上記「鋳立方七賢人」と共に掲載されているようだが、時期によっては「七賢人」と書かれていない看板も存在している。現在はどちらか不明。前述の鋳立方七賢人はどの看板でも書かれており、論文などでも考察の対象になっていることから実際に言われていたと思われるが、こちらについては実際にそのように呼ばれていたかは不明である。
佐野常民
まさかの被りである。詳しくは佐賀の七賢人の項を参照。
中村奇輔
京都の住人だったが抜擢され佐賀藩に招かれる。電信機の設計や後に鍋島直正らを唸らせた機関車の模型は彼の手による。後に実験中の事故で重傷(火傷、火薬の爆発による失明とする記載もあるがいずれも典拠不明)を負い、最後は廃人のように過ごしたという。科学に生涯を捧げた人生であった。長男は化学染料の研究で知られる中村喜一郎、次男は後述する田中儀右衛門の養子となる形で田中家を継いだ田中林太郎である。
石黒寛次
丹後国出身の蘭方医・石黒寛次もまた佐野に抜擢された人物の一人である。その高い蘭学の見識を持って洋書の翻訳、技術的考察に尽力している。
田中近江
本名、田中久重。いわゆる「からくり儀右衛門」である。もともと久留米出身だった久重はからくり人形や様々な機械を開発し人気を博していた。機関車の模型の製作にも携わっている。明治時代には田中製作所を創業。後の東芝の母体企業の一つとなる。
田中儀右衛門
上記の近江の養子でもともとは浜崎岩吉と名乗った。本名・重儀。看板には「からくり儀右衛門」と書かれているがそれは義父・田中近江(久重)のことである。また、wikipediaなどに記載されている2代目田中久重とも別人である。義父共々アームストロング砲の開発に尽力するが同僚の秀島により殺害されてしまう。この際にその子も殺害されており、田中家の名跡を惜しんだ佐賀藩により中村奇輔の次男が養子に入っている。
福谷啓吉
豊橋出身の福谷は長崎遊学中にスカウトされ、佐賀藩に所属。科学技術を学んだ他、長崎海軍伝習所に所属し航海法を学んだ。後に万延の訪米使節団に参加している。明治維新後は工部省、農商務省で活躍したとされる。
看板には「川崎造船所の創立者」と書かれているがそのような事績は確認されない。品川硝子製造所の運営には関与していたようだが…。
※この看板、いくらなんでも嘘を書き過ぎではと著者は訝しんでいる。
秀島藤之助
秀島藤之進、とも。蘭学をよく修めた技術者として活躍したがある雷雨の晩に突如発狂、上記の田中儀右衛門(二代目)とその子供を惨殺するに至ってしまう。そのまま廃人となり、数年後に死去した。後の世で事蹟を紹介されたのにその内容がまさかの「アームストロング砲研究で発狂」になろうとは本人も思っていなかっただろう。発狂したことを惜しまれたようなので、優秀のみならず元々は気性の優しい好人物だったと思われる。司馬遼太郎氏の短編小説『アームストロング砲』の主人公として描かれている。
3.おわりに
こうしてまとめてみるといずれも維新で名を馳せた賢人ばかりの佐賀の七賢人である。一方で鋳立方七賢人、精煉方七賢人はネームバリューが数段落ちる。特に精錬方は7人中3人が悲惨な最期を迎えておりなかなか激しい。
また、調べてみると公式の標榜に割と誤りが多い。裏取りの大切さを痛感した次第である。旅先で得られたマイナー知識。いつ披露できるかわからないので、皆様もぜひnoteにまとめてみてはいかがだろうか。