【音楽と街】虚飾の街
半年ほど、キャバクラでバイトをしていた時期がある。
所謂、黒服というやつだ。
場所は大阪の十三で、24歳の頃だった。
関西の大学を卒業後、いろいろあって就職せず、地元の北海道に帰りバイトをした僕は、そのお金でインドやネパールを旅して周った。
帰国後、再び関西に戻り、就活を始めることにした。
しばらく北海道でのんびり過ごしてもよかったのだが、それでもすぐに再び関西の地に戻ったのは、友人知人がいたことや、所属していた劇団の活動があったこともあるが、やはり都会の刺激が欲しかったんだと思う。
親はもう少しゆっくりしたら、と言っていたが、僕はすぐにでも動き出したかった。
今思えば、何がそんなに自分を駆り立てていたのか分からないが、それが若さというものなのかもしれない。
関西に降り立った後は、枚方に住んでいる友人の家に転がり込み、居候させてもらった。
そこを拠点に、家探しと就活、そして演劇の稽古を同時に進めた。
格安のシェアハウスを見つけ、ひとまず家は確保。
しかし、初期費用その他諸々に加えて、稽古や就活にかかる交通費や雑費が嵩んで、すでに貯金が底をつきかけていた。
これはまずいと思い、高時給で長い時間入れるバイトを探した。
そこで昼〜深夜まで営業をしているカフェ&バーの求人を見つけ、応募した。
面接に行くと「ここは求人が埋まっちゃってるから系列店を紹介するよ」と言われ、そこで連れて行かれたのが、キャバクラだった。
初めはその詐欺紛いのやり口に腹が立ったし、キャバクラなんて嫌だよと思って断ろうと思った。
しかし、聞けばそこは昼から営業しているということで長時間入れる上に、最初に応募した求人よりも時給がいいこともあり、条件の良さにとりあえずやってみることにした。嫌になったら辞めればいいし。
そうして、僕は就職が決まるまでの半年間、
キャバクラのボーイ(黒服)として働いた。
実際働き始めると、大変なことはたくさんあった。
キャバ嬢の名前、料金システム、夜の世界の用語、
お酒の名前と作り方、常連客の名前……。
などなど覚えることが山程あった。
客から嬢を守るのもボーイの仕事だった。
嬢のお尻を触ろうとするエロオヤジがいようものなら、「お客様、ちょっと手が…」と言って制するのだが、大抵「なんだてめえ!」とキレられた。
泥酔したおっさんに絡まれると本当に大変だった。
酒を飲むよう強要されたり、訳のわからない説教を垂れてきたり。
また、煙草が切れた客のために、外のコンビニまで買いに行くことがあるのだが、急いで走って買ってきたにも関わらず「おせーよ!」と煙草の箱を投げつけられたこともある。一度胸ぐらを掴まれたこともあった。
クリスマスなどのイベントには、ボーイが変なコスプレと白塗りのキモいメイク(野性爆弾のくっきーみたいな)をさせられ、客を盛り上げるという謎の仕事もあった。その格好で客の煙草を買いにコンビニに行かされ、店員に怖がられたのもいい思い出。
他にも色々あるけど、とにかく特殊な世界で、大変だった。
でも、楽しいこともあった。
店長や社員は意外に優しく、しょっちゅうご飯を奢ってくれたし、業務中に少しでも暇ができると煙草休憩を与えてくれた。
バックヤードで一服していると、気さくな嬢が声をかけてくれたりして、可愛い女の子と話せるのも嬉しかった。
(本来、ボーイと嬢は会話禁止だが、なぜかその時間だけは黙認されていた)
中には、僕のことを気に入ってくれた常連客がいて、わざわざ僕のシフトに合わせて来店してくれ、時にはこっそりチップをくれることもあった。
また、ボーイのバイトはすぐにトぶ奴が多く、その中で黙々と働く僕を見て、店長が「こんな夜の世界に馴染まないやつ久々に見た。でもそれが有難いねん」と言って、時給を上げてくれた。
真面目にコツコツやれば、どんな世界でも通用するのかもしれない。そう思った。
十三という、昭和の香りを残した大阪有数の歓楽街。
通りにはパチンコ店やピンサロ、ラブホ、キャバクラなどが立ち並び、夜になるとネオンがぎらぎらと光を放ち始める。
半年前までは全く無縁だったそんな夜の街。
そこで僕は黒いベストに身を包み、髪をオールバックにして、かなりイケイケな感じで働いていた。
その傍らで進めていた就活も、順調だった。
もうあと一歩で内定という会社があり、しかもそれは希望していた出版業界だった。
友人からのアドバイスで、
「黒服をやっていることは隠した方がいい」
と言われ、現在は学生時代にやっていた塾講師のアルバイトに復帰して受験生を教えている、ということにして履歴書を書いた。
面接でも、それについて聞かれると「生徒と真摯に向き合う先生」を演じて話した。
学生時代の経験を話せばいいから、嘘ではないが、でもやっぱり嘘だった。
しかし、それがやけに評価されて、すぐに社長と面接する運びになった。これは最終意思確認みたいなものだから、と言われており、もうほとんど内定が決まったようなものだった。
僕もやればできるんじゃん、と意気揚々だった。
就活の他にも、演劇の稽古に勤しみ、舞台に立ち、
そして暇ができれば友人としょっちゅう会い、街中でギターを弾いたり、夜更けまで語らって過ごした。
同年代の平均的な月収よりも多く稼げていたし、
常に何かしらの予定があり、動き回っていた。
毎日刺激があって、エネルギーに満ちていた。
家も仕事も金もない状態から、
僅か数ヶ月でこんなに充実した生活を手にしたんだ…。
きっと、一人で海外を放浪したことで、なんでもできるという自信がついたんだろう。
実際、自分の力でなんとかなっている。
僕は、なんでもできるんだ。
そんな高揚に酔い痴れながら過ごす日々の途中で、僕はある日、ふと途轍もない疲労感に襲われた。
バイトが終わる時間は午前2時とかになるので、当然終電もなく、代わりに送迎車が用意されていた。
夜職専門のドライバーが複数人おり、彼らが手分けしてキャバ嬢と社員、ボーイたちをそれぞれの家に送り届けてくれた。
どのドライバーが誰を乗せるかはその時々で変わるので、いろんなドライバーが僕を乗せてくれた。
個性的なおっちゃんが多く、べらんめえ口調で喋り続ける人や、何故かめちゃくちゃ低姿勢の人、表情ひとつ変えないロボットのような人など、様々だった。
方面が被っている人は同じ車に乗り込むのだが、僕は誰とも被っていなかったので、いつも一人だった。
送迎車に乗っている時間は、アクの強いおっちゃんと二人きりということで、正直ちょっとしんどかった。
ただ、その中で一人、僕をいつも優しく気にかけてくれるドライバーがいた。
その人は40代くらいのおじさんで、口調が柔らかく、静かに話す人だった。
ちゃんと食べてるかい?
ちゃんと寝てるかい?
息抜きはできてるかい?
いつもそうやって体調を気遣ってくれた。
そんな優しかったおじさん、
確かコンドウさんという名前だったと思う。
コンドウさんはいつも僕に、
「君はこの世界に長くいちゃいけない」
と言った。
就活は順調だったし、あくまで決まるまでの繋ぎなので、その気はなかった。
店長から社員へのスカウトを受けることもあったが、さすがにキャバクラに就職する気にはなれなかった。
夜の世界の仕事は刺激に満ちていて楽しかったが、やっぱり自分のような人間がいるような場所じゃない。半年も経つと、ちょっと疲れてきた。
ある日、コンドウさんが僕の送迎担当になった時、そんな僕の気配を感じ取ったのか、いつもよりも重い口調で、
「君はいい就職先を見つけたら、すぐに辞めて昼に戻るんだよ」
と言った。
そして、「僕みたいになっちゃうよ」
とぽつり呟いた。
コンドウさんの身の上話は一度も聞いたことがなかったが、まるで公民館の受付にでも座っていそうな穏やかな風貌のこのおじさんが、どういう経緯で夜のドライバーをやっているのか気にはなっていた。
結局その真相を知ることはなかったが、その時僕は、コンドウさんの優しさの裏にある影を見た気がして、人間一人ひとりが抱えて生きる「人生」というものの遣る瀬無さを感じた。
そして僕は、何も言葉を発することができないまま、車の窓に頭を預け、外を流れる街並みを眺めていた。
ちょうど神崎川という大きな川を渡る橋に差し掛かった時だった。ここが大阪と尼崎市の境目になる。
川の水面に、ふたつの街から放たれる人工的な光が映って、ゆらゆらと揺れていた。
そのすべてが虚飾だと思った。
街は虚飾を纏って、呼吸を続けている。
そして、僕もまた虚飾にまみれている、と思った。
本当は真面目で、夜遊びなんかしたこともないくせして、たまたま夜の街で働くことになったに過ぎない自分に酔い、虚勢を張り続ける日々。しかも、たかがバイトで。
昼間は就活でそんな自分を隠し、べらべら嘘を並べ立てて、まるで品行方正な塾講師を演じている。
演劇の公演でも主演を演じて、脚本にも関わったりもして大活躍のように思えたが、実際の僕はいろいろ足りなかったことを本当は分かっている。いつも劇団員がフォローしてくれたから、なんとかなっていただけだった。
昼でも夜でも、僕は嘘だらけだ。
それに気が付いた時、どうしようもない虚しさを感じた。
静かな車内で、ラジオが流れていた。
FMの洋楽をひたすら流す番組だった。
「…次はこちらをお聴きください。ビリー・ジョエルで、『ウィーン』」
ビリー・ジョエルか…。
「Pianoman」や「Honesty」が大好きで、学生時代よく聞いてたっけ。
「ウィーン」なんて曲、あったかな…。
ぼーっと聞いていると、哀愁漂うピアノと、しかし悲しすぎない、どこか明るさも感じさせるメロディが流れてきた。
ピアノとともに高らかに歌い上げる声が、やけに胸に沁みる。
英語の歌詞はわからなかったが、どういう訳かその歌は僕の心を抉った。
お前に都会は似合わないよ。
北海道でゆっくりしていれば良かったんじゃないか?
もう自分や周りに嘘をつき、見栄を張るのは疲れただろ?
そんな言葉が頭の中をぐるぐる巡っていた。
あとで調べると、その曲は「Vienna」と綴り、それで「ウィーン」と読ませるのだった。
歌詞の内容は、父が息子に語りかける形で、
「何をそんなに急いでいるんだい?」
「人生は長いんだ、ゆっくりでいい」
と、若者が燃え尽き症候群に陥ってしまう事へのメッセージが綴られていた。
まさにあの日、あの時の自分にぴったりの内容だった。
だから歌詞がわからなくとも、僕の心は抉られたのだった。
キャバクラを辞めた後、内定が決まった会社に入社した僕は、そこをわずか3ヶ月で辞めた。
業務の内容や社風、人間関係、すべてが合わず、毎日頭痛に襲われ、仕舞いに血尿が出た。
会社というよりも、身の丈に合わない会社を選んだ自分のせいだった。
結局、嘘の自分じゃ上手くいかないことを思い知った。
その会社も含めて、僕はこれまで仕事選びについてずっと迷ってきた。なかなか定まらず転々としてきた。
いろんな経験を経て、自分のことがわかってきて、少なくとも黒服をやっていた時代よりは落ち着いて生きるようになった。
迷うこともまた好機、とポジティブに捉えられることも増えた。
それでも、時には周囲の人たちや時代の変化の早さに慄いて、焦燥と劣等に自分が見えなくなってしまうことがある。
そんな時は決まって、送迎車の窓から川の光を眺めていたあの夜がフラッシュバックする。
そして、ビリー・ジョエルの歌と、コンドウさんの「僕みたいになっちゃうよ」というつぶやきが、呪詛のように、僕の頭の中でリフレインするのだった。
今も、まだ。
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