見出し画像

ただの食事がしたいです

大食い系ASMRがめちゃくちゃ好きだ。でも咀嚼音が好きで見てるわけじゃないってことはよくわかっていた。
特に、早食いでなくてしゃべらず食事をして最後笑顔な動画が好きで、ああ幸せそうに食事をする人を見るのが好きなのか、と思ったけどなんか違和感があった。それなら大食いである必要はないのでは?

たぶん私はそういう動画をみることで「食事は楽しいもの悪じゃない」「食事はそれぞれが食べたいように食べるもの」「食事に食事以外の意味はない」って思うことができて、それが好きな理由なのかもしれない。
(もちろん動画は視聴回数を伸ばすために食べ物を選んでいるんだろうけど、私から見れば美味しそうに食べていたらきっとこの人は食べたかったものを食べてるんだ!で落ち着けることができる)

オートファジーだのビーガンだのダイエットに完全食だ、世の中は必要最低限以外食べるな!であふれている。
食事は大切といいながらそれは純粋に3大欲求の食事を大切としているというよりも、食事は自分を構成するのですから考えて食べなさい、無駄にとると健康で綺麗でもいられませんから気をつけましょうね、そして周りの全てのことも考えて、ということだ。
それって大切にされているのは健康や外見や価値観に関するもので食事そのものではない。
そんな食事が楽しいかね?私は自分の欲求に目を瞑って我慢して食事を選んできれいなままで長生きしたいとは思わない。
それより断然欲望のままおいしかった人生にしたい。

目の前に食べたいものがあって、私は今からこれを食していいって感覚は原点にして頂点でとてもわかりやすい幸福だと思うんだよね。
そして食べたら口の中も胃も血液も心も体温も頭もおいしいに満たされて幸せになれる。
シンプルな幸福だ。
人間が動物だって思わせてくれる要素をこれ以上なくしちゃならないと思うよ。ディストピア的すぎるし、血が通ってない。

食事はいろんな役目を請け負いすぎてると思う。
君はおいしいだけでこれ以上ないくらい十分なのに、大きな主語(例えば人類)を素晴らしいもの()にするためにいろいろ引き受けすぎて「正しい食事!~素晴らしい人になるための選択~」ぐらいなタイトルを掲げて期待を背負っているけれど、君は食事であってそれ以外の何物でもないはずなんだ。いつから食事まで社会の所有物になったんだろう、食べるをするのは他でもない自分なのに。

食事は楽しいよ。
このままならない理不尽な世界だからこそ、おいしいって体を温めて、ほっとする時間が必要だと思う。
必要最低限を目指して削りに削った食事には愛情がかけている気がするよ、そこには標準化されて最適化された何かしかない。
だから大切な人が、食事を適当に、物質的に済ませているのをみると不安になる。
その人の存在自体が消え行って遠くへ行ってしまう気がして、果てはいつか死ぬということを強烈に感じてしまう。

私にとっては食事は生命線なんだろう。
食事がいつかサプリメントを飲むだけでよくなったとしても、いつか普通に自炊している人が物凄く奇妙がられるような時代になったとしても、それが社会を脅かすとしても、
私が食べたいものを食べる、そういうただの食事がしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?