冥王星りりか



 ポン、と軽い通知音がしたのでメッセージを読む。ゆなからだった。
「りりか、脱退だって」
 なんじゃそりゃ。
 世界が一瞬で暗くなったと思った。
 慌てて公式リリースを探す。それはすぐに見つかった。一身上の都合により本日付で脱退。なんじゃそりゃ。
 世界が一瞬で暗く重くなった。
 公式サイトからは名前も写真も動画も消えている。MVはりりかの姿を消して上げ直されていた。歌声からもりりかの声だけなくなっている。たしかにいたのに。笑って歌って踊っていたのに。ぜんぶなくなってしまった。
 しない方がいいと思いながらもりりかがメインで使っていたSNSを検索してしまう。いろんな嘆きが飛び交っていた。悲しみ、疑問、恨み、運営への憎悪、いろんな誰かの感情が幾重にも波になっていて呑まれそうだ。カプセルを埋め尽くすポストの海に、りりかのポストはない。すべて削除されたのだ。魚拓だけがたまに浮かんでいる。辛い、辛い、なんで。

 シュステマ・ソラレ、というアイドルグループがある。太陽系という今となっては遠い星々をコンセプトにしたアイドル。各メンバーには惑星や小惑星や衛星の担当がある――太陽はいない――。りりかは冥王星。なんのこっちゃという気もするが、正直ネーミングはそれでいいのかと思うが、遠い昔のヒトの故郷というのは、エモさに惹かれがちな若い子にも、郷愁に弱い中年にも結構ウケがよく、デビューから三年ほどだが幅広い年代にファンを増やしている。今年にはきっとライブの同接が百万行けると言われていて、……え、なんで?
「この書き方って不祥事だよね」
 ゆながチャットで話しかけてくる。
「SNSではみんな色々言ってるけど、どれも憶測というか妄想だね」
「それ、何もわかんない、ってのと同じじゃん」
「うん、そうだよ」
 わかんないんだよ、とゆなのメッセージが続く。
「一身上の都合としか発表されてない以上、わたしたちにはわかりようがない」
 冷静だな、と思った。ゆなもわたしと同じ、りりかが一推しだったのに。ライブもいつも一緒に観てミーグリや2sの対策練っていろんな情報交換して何時間も感想話して、……りりかが研究生の頃からなのに。どうしてそんなに冷静でいられるの。激情のままぶつけそうになるのを必死でこらえる。
「わたしは暫く、SNSから離れようと思う」
 ぽつ、とゆなのメッセージが浮かぶ。
「今、いろんな声を見てしまうのはしんどいから」
 そう続いたメッセージは、わたしが既読にするとふっと視界から消えた。りりかのポストのないSNSでは、ひっきりなしに誰かの感情が押し寄せている。ぎゅっと目を閉じてみてもまだ押し寄せてくる気がする。
 何したの?
 男絡み?
 これからってときにバカじゃないの?
 そんなに酷いことしたの?
 運営の都合とかじゃなくて?
 まさか犯罪?
 もしかして誰かに騙されたの?
 まじ何したの?
 とめどない、疑問と悲しみと悪意の奔流がカプセルを埋め尽くす。
 この星では、ヒトはカプセルから出られない。わたしたちはカプセルで生まれて、カプセルで成長して、カプセルで生活して、カプセルで死んでいく。自分以外のすべてはカプセル越し。モニターでもあるカプセル内側に映し出されるものが世界のすべて。家族も友達も上司も芸能人も、みんなカプセルに映る映像。ニワトリの卵みたいな形のカプセルの中が、わたしの世界。今はいろんな誰かの疑問や悲嘆や憎悪でいっぱい。見ない方がいい、そう思うのに、ゆなみたいにSNS断ちすべきだってわかってるのに、見てしまう。端から端まで、どこかの誰かの、りりかに関する疑問や悲嘆や憎悪や悪意を。ぼんやりとした頭で仕事をしても気は紛れない。いつもどこかにこのことがちらつくし、少しでも手が空けばSNSを見てしまう。どこまでも疑問や悲嘆や憎悪や悪意ばかりのSNS。嫌になるのにやめられない。

 三日経っても、状況はあまり変わらなかった。
 りりかの詳しい脱退理由はわからず、根拠のない噂が出ては消え、SNSでは疑問と悲嘆と憎悪と悪意が渦巻いていて、わたしは張り付くようにそれを眺めている。やめられない。自分でも、自分が今何を感じているのか、思っているのか、よくわからなかった。りりかのことがわからない。りりかのことをどう思っているのかも、わからない。ソラレのことは好きだと思う。でも見ると、りりかがいないことに気が向いてしまう。ローカルに保存している映像を再生する。表立っては言えないような手口で保存したそれは、アップロードされているデータとは切り離されているから、運営の編集の影響を受けない。そこにはまだ、りりかがいる。時間の止まった世界。もう新しい映像が出ることはないのだ。メンバーごとのパフォーマンス映像、そのりりかの分も保存してある。どれ、とかではなく手近なファイルを再生する。メジャー3枚目シングルのA面。一人で歌い踊るりりか。この曲のサビ直前が苦手でどうしても上擦る声、そこ以外は外さない歌、フレーズごとに決まる表情、指先まで神経の行き届いた踊り、はっとするほど美しく翻る上着の裾。すらりとしたりりかに長めの上着がよく映えた。背景はついているけど、この映像の中にはりりかしかいない。これが本当なんだよなと思いながら観ていたことを思い出す。アイドルグループも、みんなそれぞれカプセルの中にいるんだから。運営が一斉に音楽を流して全員でパフォーマンスしていても、カプセルの中には、カメラの、マイクの前には常に一人だ。配信に乗るかどうかはともかく。ソラレの一列目は惑星と決まっている。小惑星は二列目以降。下手したら惑星の衛星のさらに後ろ。歌割りも立ち位置に準ずる。どんな立ち位置でも絶対に手を抜かないりりかが好きだった。全員映像では後列で、何秒映るか、歌割りもソロは1フレーズあるかどうかという中で、完璧にパフォーマンスして、笑顔を振り撒くりりかが好きだった。……ああ、もう過去形でしか語れないのか。唐突さと発表の文言からしてりりかが何かよからぬこと、それも結構なことをしでかしたのだろうとは思っていて、だからりりかに怒りたいのに、わたしは未だに怒れない。何をしたのかわからないからというのもある――どうしてもりりかは悪くないと考えようとしてしまう――けど、ただただ嫌いになれないのもある。きっと何をしたかわかっても、嫌いきることはできない気がする。嫌いになれない。あんな文書一つでいなくなるようなことをしたのに、あっけなくわたしの前からいなくなったのに、嫌いになれない。ぐるぐるとパフォーマンス映像が再生され続ける。その表情、指が凜と作るポーズ、翻る裾、パフォーマンスを重ねる内に苦手なサビ直前で音程がズレなくなったことも思い出してしまう。自分の中に、りりかが多すぎてどうにもならない。いっそ削除しようかと一瞬閃いて、慌ててやめた。嫌だ、そんなの。ここから消したら、もう本当に見られなくなってしまう。その方がいいのかもしれない、とも思ったけど、今は無理。自分が見られるりりかがなくなっても、きっと未練は消せなくて、見られなくしたことに後悔する予感しかしない。いっそ嫌いになりたい。でも、やっぱり今は無理。
 でろん、カプセルの中でうだうだとし続けている。どんなにうだうだしていても、カプセルはわたしの生命を維持するから、生きていくのに支障はない。こんなに辛いのに、こんなにしんどいのに、こんなに何もかもどうでもいいのに、わたしは生きていけてしまう。生きてなければいけない。
 以前ゆなとした会話を思い出す。
 冥王星って、元は惑星だったんだって。でも研究が進んで、惑星ではなく小惑星ってことになったんだって。
 冥王星が惑星のままだったら、りりかも一列目だったかな。
 ……どうだろうね。
 惑星かどうかって、誰かが決めてるんだ。
 てかほんとは準惑星って言うらしいよ。でも小惑星に含まれるとかでソラレでは分けてないんだと思う。
 なんか、曖昧だね。
 まだ、ヒトが地球から出られなかった頃の話だよ。そういうのも、人によってはノスタルジーになるんじゃない。
 郷愁なんて、太陽系なんて、どうでもいいよ。
 今となっては、ほんとうに。
 たとえ冥王星でも、わたしにとっては太陽だったよ、りりか。
 ソラレの新曲がアップロードされた通知が来た。
 条件反射で再生する。りりかはいない。それでもソラレで、わたしはやっぱりこのアイドルグループが好きで。りりかのことも、ソラレのことも、嫌いになれない。幸せになってほしい、幸せでいてほしい。一報を見て以来、初めて涙が流れた。
 りりかもこの星のどこかで、カプセルの中生きている。
 どんなに辛くてもしんどくてもどうでもよくても、死ぬことはできないなら、せめて、あたたかく明るい世界であってくれよ。
 どうか、太陽がこの暗く寒い宇宙で凍えたりすることがないように、そこに光がありますように。



※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは関係ありません。


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