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『伝えたい・・・あの日あの時あの戦争』お子さんがいらっしゃる、お父さんお母さんにも読んで頂きたい・・・~11歳の少女が体験した炎の記憶~

『伝えたい・・・あの日あの時あの戦争』

お子さんがいらっしゃる、お父さんお母さんにも読んで頂きたい・・・
~11歳の少女が体験した炎の記憶~

このお話は、今年86歳になる、私が小さい頃からお世話になっている大切な方が体験した、太平洋戦争末期、昭和20年(1945年)5月25日(金曜日)の夜半に起きた、東京都中野区での、あの日あの時の記憶でございます・・・

「ムツコ!ムツコーーッ!!早く起きなさい!!!空襲よ!!!」

当時35歳の母に揺り動かされ、ようやく目が覚めましたが、カーテンから映る窓の外は、物凄く真っ赤で、空からは割れんばかりの「グォォォォォォ・・・」とB29が爆音を響かせ、ザーーザーーザーー・・・ヒューーヒューーヒューー・・・と、焼夷弾の落下音が激しく聞こえ、この我が家にもいつ落ちてくるか分からない、恐怖にすぐに陥りました。

母は、生まれたばかりの弟に『防空頭巾』を被せ、おぶ紐で背中へ背負い、私は、まだ幼い弟と妹に、防空頭巾を被せ、荷物を持って行く余裕もなく、母が「さあ行くよ!!絶対にお母さんから離れちゃ駄目よ!!!」と、ガラガラッーーッ!!!と格子戸を勢いよく開け、玄関から飛び出すと、表の道では、『空襲警報』のサイレンがウーウー、『火の見櫓』の半鐘が、カンカンカン❗カンカンカン❗と鳴り響き、防空頭巾や鉄兜を被った近隣の人たちが避難を始め、大混乱していました。

「どけーーーっ!!」「退避ーーーっ!!たいひーーーっ!!!」「ウワーーンワーーーーン!!!」「きゃああああ!!!」「早く川の方へ逃げるんだーーっ!!!」

恐怖のあまり、気が動転していて、我をも忘れ、四方八方に走り出していました。

「川へ逃げ込んだら死んでしまうよ!!!3月の下町の空襲では、たくさんの人が川で亡くなったのよ!!」(火が火を呼び、川全体が火に覆われると、酸欠状態になるため)

母が、落ち着いた話し方で、つい先日まで長野県に『集団疎開』に行っていた私に声をかけ、川がどれだけ危険なのかを話してくれ、とにかく火のない場所へ・・・場所へと、妹の手を引き、赤ん坊の弟を背負い、2人の弟の手を引いた母の背中にしっかりしがみつくように、走り続けました・・・

その時です!!!

ザーーー・・・キィィィィィ・・・ン・・・

と、突然今までの雑踏が急に静寂したかと思うと、母が「伏せなさい!!!」と大きな声で怒鳴り、空襲時の自分の身を守る対策として、学校で習っていた、目、鼻、口、耳を両指で抑え、地面に伏せをすると、すぐ近くの住宅や、道路に「ガシャーン!!!ガシャーン!!」と、焼夷弾が勢いよく落下。ガソリンを原料としているため、すぐに油と火が飛び散り、住宅内や電柱に「バチバチバチ・・・」火が回り、真っ黒な煙が私たちを包み込んでしまいました。

道路に突き刺さり、火を噴く六角形の筒状の焼夷弾の周りに、弟が「おねえちゃーーん!!恐いよーーこわいよーーーっ!!!」と、気が動転して、犬がピョンピョン飛び跳ねるように踊っており、私たちも「ゲホゲホ」と咳き込むようになり、どうすることも出来ない状態でした・・・

そして、脇にあった水が上まで張られた『防火用水』に辿り着くと、母が白い割烹着をビリビリに引き裂き、防火用水の水に浸し始めました。

「人間は、喉をやられたらおしまいよ!!!この浸した割烹着を口に加えなさい!!!」 と急き立てるように、私や弟や妹、背中の赤ん坊に加えさせ、もうもうと立ち込める煙に這うように立ち向かい、ようやく煙のない場所に脱出でき、まだ火の手が迫っていない、小高い丘の竹林に避難する事ができました。

焼夷弾と煙の恐怖から解放され、急に疲れが出てヘナヘナと座り込み、中野の街を見渡すと、我が家方面に何発も焼夷弾が落下し、大きな火柱を上げましたが、不思議と涙も出ませんでした・・・

「ドッカァァァーーーン!!!ドォォォォォ・・・」と轟音が響き渡り、驚いて音がする方向に目をやると、渋谷区初台にあった『ガスタンク』に焼夷弾が落下し、その影響で大爆発していたのでした・・・

それから、いったいどの位の時間が経ったのでしょう・・・

いつの間にか、B29の大編隊の姿は消え、あちらこちらからは、まだ火の手が上がっていましたが、東の空からは、眩しい朝日が昇って来ると、昨日まであった街は、ただ焼けただれた『死の街灰の街』と化しておりました・・・

目を覆うばかりの、火に巻かれ犠牲になった、変わり果てた人々の姿・・・焼夷弾が突き刺さり、そのまま倒れている『黒焦げの死体』・・・荷車を引っ張る馬も、大火傷を負って焼けただれ、ドサッ・・・と息絶えていた・・・

架線が垂れ下がり、蜘蛛の巣のようになり『中央線』の線路以外、何も無くなっていた・・・

足元をふらつかせながら、我が家に戻ってみると、何もかもが焼け落ち、防空壕に入れておいた、大切な品々までもが灰となり、まだ燻っていたのでした・・・

また、現在の環状七号線(環七)の大通りに出ると、真っ黒に焼けた『新宿駅』の駅舎とプラットホームが見え、ただただ呆然と立ち尽くすしかありませんでした・・・

この日は、中野区を始め、全国的にも有名な、新宿、渋谷、六本木、表参道、青山・・・

東京駅、皇居の一部も空襲の被害を受け、無残な姿を晒すのでした・・・

昭和20年5月25日、東京都中野区の、あの日あの時の記憶。(画・三井浩司郎)ご本人から聞き取り、文章も私が書き上げ、まとめました🍀

~11歳の少女はその後、終戦後に進駐軍団体が主催する、戦災孤児たちのお世話をするボランティアに参加した時に、ボロボロな姿になり、両親を空襲で亡くした同級生に再会しました。
そこで、口も聞けず、あまりに無惨な姿に衝撃を受け、二度とこんな戦争を起こしてはいけないと強く思い、人の心をケア出来るお医者さんになりたいと思い、日本で最高学府の医学部に進学をして、86歳になった今でも、現役の内科医として頑張っておられます~

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