『ハマの街が燃えた』

伝えたい・・・あの日あの時あの戦争

このお話は、八年前に、私のフェイスブックページに投稿したのを少し手直しをし、また皆さんに何度でも読んで頂きたく、毎年再投稿しているものです。

朝から晴れやかに、大変清々しい気分ですね・・・
さて、5時に早起きして朝から日記を書いていたのは、皆さんにお話をしたいことがあったからでした。

本日5月29日は、観光地やデートスポットで有名な港町ヨコハマが、たくさんの犠牲を払い燃えてしまった日だったのです・・・

何を言っているの?と驚かれたと思いますが、75年前の、太平洋戦争末期、昭和20年(1945年)5月29日(火曜日)朝からの大規模な空襲で、街の中心部は灰塵に帰しました・・・

あの日は・・・

午前6時30分、『警戒警報発令』。

「ジーーーーッ!!!東部軍管部情報。南方洋上より敵機大編隊が来襲せり。横浜市方面へ向かっているものと思われます。」と、常に付けっぱなしのラジオからは、ブザー音が鳴り、アナウンサー(当時は放送員と呼んだ)の声が聞こえました。

横浜市民は少し緊張した赴きで、それぞれの職場学校へと向かいました。空はまさに初夏を感じさせる青空・・・地獄絵図にはつながるとは思えないぐらいの素晴らしい青空でした。

職場や学校では朝礼が終わり、それぞれが本格始動してしばらくした、午前9時30分、空襲警報発令。

「ウーーーーウーーーー・・・」あの不気味で低音なサイレンが響き渡りました。「来るぞ!!」と誰もが覚悟していました・・・

「これ以上は進めませんので、速やかに降りて下さい!!!」と、市内を走っていた市電も緊急停車。運転手さん、車掌さんに促され、防空頭巾、鉄兜を被った乗客たちが、次々と車外へ飛び出して行きました。

やがて・・・相模湾の彼方より、黒い機影が見え始め、見る見る内に、空が真っ黒になるぐらいのB29・517機、艦載機P51・101機が覆い被しました…

「ザーーーザーーーッ!!ヒューーーヒューーー!!」まるで夕立の様な音が響き、焼夷弾が雨あられ、横浜の街を襲い始めました・・・

「退避ーーーっ!!!たいひーーたいひーーーっ!!!」「しょ・・・焼夷弾だあーーーっ!!!」「ゲホゲホ・・・煙で前が良く見えない・・・」

あの青空が、火災による煙でどんどん真っ暗になってきました・・・

大混乱に陥った横浜市民、どこをどう逃げたら良いのかわからないぐらい、焼夷弾が落ちてきました。次々と火柱を上げ、逃げ道を塞いでしまいます。
10万人以上の犠牲を出した、同年3月10日の東京大空襲のおよそ2倍の焼夷弾が落ちてくれば、ひとたまりもありません。

また、艦載機P51が逃げ惑う市民に向かい、「ダダダダダ!!!バリバリバリバリ!!!」機銃掃射で『低空飛行』で狙い撃ちをして「きやあああーーーっ!!!」「P公だーーーっ!!!」市民は次々と倒れて行きました・・・

朝方の空襲と言うこともあり、横浜市内各駅では緊急停車をした電車がたくさん止まっていました。

京浜東北線・横浜線『東神奈川駅』では、停車していた横浜線車内には、多くの人たちが身を潜めていましたが、「早く電車から離れろーーーーーっ!!!」と駅員の大きな怒鳴り声がしたと思いきや、慌てて転がるようにプラットホームに飛び出した瞬間、「ガシャーンガシャーン!!!」と、焼夷弾が電車を直撃。すぐさま大きな炎が、電車を包み込んでしまいました・・・

京浜急行線『黄金町駅・こがねちょうえき』でも、上下線、約700人前後の乗客達が、改札へ続く階段に身を潜めていました。

やがて劫火が駅に迫り、逃げ道を失った人々が「うわあああ・・・」「たすけてーーー・・・」最期の雄叫びを上げ、そのまま蒸し焼き状態で犠牲になる惨事も起きてしまいました・・・

この日の空襲では、たった1時間の空襲で、当時67万都市に1万人近くの犠牲者が出たこと、執拗に一般市民を狙っていたこと、43万8576発もの焼夷弾が、異国情緒溢れる街に落ちていたこと・・・どれも考えられないことです。

雨あられ焼夷弾が降り注ぐ中、その後の芸能界を支えることとなる人も逃げ惑っていました・・・

8歳の誕生日に逃げ惑う事になってしまった歌手の美空ひばりさん、女優の岸恵子さん、草笛光子さんもいらっしゃいました。もし・・・もしこの方達が、この空襲の犠牲になっていたら、その後の芸能界はいったいどうなっていただろうと考えるだけでも恐ろしいことです!!!

落語家・桂歌丸師匠のご実家、お笑い芸人・出川哲朗さんご実家の老舗のり店も焼失。

ビクターレコードの本社工場も焼けてしまい、自社生産が不可能になり、戦後しばらく、ライバル会社のコロムビアレコードのスタジオ工場を借りて、生産を始めた伝説も生まれました。

あれから75年・・・何事もなかったように見事に立ち直った横浜市。流行の発信基地としても、おしゃれなデートスポットとしても名高いヨコハマ。
しかし、今のおじいさんおばあさんの青春時代には、地獄になったヨコハマ。
きれいでおしゃれな街も、あの日の犠牲があって成り立っていることも、忘れないで下さい・・・

幸せも、自分だけではなく、いろんな人々に支えられて成り立つこと。

もし、ヨコハマを訪れることがあれば、そんな事実もあったことも頭の隅に置いて貰えれば、犠牲になった方達も、少しは浮かばれるかもしれません。

いつまでもきれいでおしゃれな街のヨコハマであるために、忘れないことが何よりの街の発展に繋がるかもしれません・・・

昭和歌い語り人からのお願いです・・・忘れないで下さい!!!

最後まで読んで頂きまして、本当に有り難うございました・・・

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