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松崎悠希氏「ゴールデンカムイはホモフォビア」

 2022.10.23時点でTwitterアカウントがフォロワー数26.9万人を誇る自民党議員、杉田水脈氏がTwitter上で行った複数の「いいね」押下に対し、氏が意図していた伊藤詩織氏への権利侵害の一環だとする判決が高裁で下った。

 本人のフォロワー数の多さと、これまでの伊藤詩織氏との関係や言動を基に判断されたようだが、言葉ですらない、ブラウザ上の機能の行使にも害意を認めたという、"画期的"な判決だろう。
 今後、これが人々の表現行為にどういう影響を与えるかは定かではないがフォロワー数も勘案されたということは、あらゆる言動に関し自身のそれ(影響力)を十分に認識することが裁判所から求められたと考えてもいいだろう。

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 2022.10.23時点でフォロワー数2.3万人を誇る松崎悠希氏が、Twitter上でマンガ「ゴールデンカムイ」のホモフォビア性を指摘していた。

 僕は、この批評が不当であることを指摘する責務を、氏のフォロワー数から勝手に感じた。若輩者ではあるが、努めて以下に述べてみたい。

 まず、松崎氏は批評のため引用したマンガの、引用元の併記を怠っている。重大な過失だ。当該コマは、「ゴールデンカムイ」7巻で描かれている。Amazon Kindle版では150P、176P、182P、190P~194Pに該当する。

 場面紹介はピクシブ百科事典に詳しいのでここにリンクを貼っておく。

 先に氏の発言の中で、ある程度首肯できる部分に言及する。

ドラマや映画などでの「マイノリティの表象(ひょうしょう/描かれ方)」は「人々の価値観」を形作る。そして、差別や偏見を生んだりもするし、逆に解消したりもする。

上掲引用ツイートより

 そういう影響を、人々に与える力を創作物は持つことも確かだし、今後の創作者らはそのことを念頭に置くことも重要だと思う。
 だがそれは限定的であり、人々が創作物よりも遥かに大きな影響を受けるのは、実生活やそこで接する人々からだ。親、兄弟、同僚や同級生、先生や上司、無関係の他人など、当人が接する人々からの影響こそが最も強い。

 例えば、日本人と白人の関係を徹底的に戯画化した「家畜人ヤプー」という作品がある。日本人はそもそも白人の奴隷として作られた生物で、主人公はそのことを知り葛藤するが最後には元恋人(白人)の奴隷として生きる歓びに目覚めるという強烈な物語だ。

 では実際に、この強烈で刺激的な物語が、どれほどの影響を日本人に与えたか、作品を読んだ多くの人が「ああ日本人は白人の奴隷だ」と思ったか白人に隷属しようと考えそう行動したか、あるいは白人に嫌悪を抱き白人を追い出せと白人排斥運動が巻き起こったかだろうかと考えれば、創作物が人に与える影響の限界というものが脳裏に描けるのではないだろうか。

 創作物は、そんなに人に影響を与えられない。しかし、バタフライ・エフェクト(東京で蝶が羽ばたくとニューヨークで竜巻が起こる?)程度の影響力は有る。
 むしろ、創作物にはそれを現実化するだけの強い影響力があって欲しい、という祈りを僕は氏の言動に感じるし、同様の意見を述べる人々からも感じる。しかしその願望が、自身の観測を歪めている可能性を僕からは指摘させていただきたい。

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 氏は、上記に述べた主題の補強として「ゴールデンカムイ」の一場面を挙げたが、以下では取り上げ方の雑さを指摘する。

 そもそもこの場面は、主人公らが熊三頭の襲撃を受け、命からがら建物内に逃げ込んでいるという緊張感の中、さらにはその建物内にもミステリアスな二人の不審者(仲沢達弥と若山輝一郎)がいて自身の命を狙っているらしい上に危機を脱するために仲間の誰かが犠牲にならざるを得なくなったという四面楚歌状態にあったにも関わらず、不審者らが突如仲たがいを始めたという理解不能な状況の発生理由が、男二人の痴情のもつれであった(突如、主人公らをほっぽり出して痴話喧嘩を始める)という想像を超えた展開に、主人公らがどう反応したものか困っている、というものだ。
 あとで若山から「姫」と呼ばれる仲沢達弥が女性であっても、主人公らは同じ表情をせざるを得ない。

 ここでは、本作がゲイカップルを道化として描いた例示として挙げているが、仲沢達弥が女性であっても(つまりヘテロカップルであったとしても)最後の主人公の「皮剥いでくる」が物語のオチとして成り立つことに注目しよう。関西での「知らんがな」「知らんけど」と同質のオチだ。

 また、松崎氏はこの見開きを「フェイクの感動コマ」と評したが、これも随分と作者に失礼な話だ。ただのフェイクのために労力を割き、見開きを描いたと思っているのだろうか。明らかに作者自身は、この二人のゲイの話を美しい物語として捉えており、それに相応しい結末を見開きで描いてみせた。だからこそ、最後の「皮剥いでくる」が(そこから物語の主題に還元する作用として)活きる構造だ。

 逆に問うが、ゲイカップルの感動シーンでは、読者や登場人物らは必ず感動しなければならないのだろうか?それがヘテロカップルの感動シーンであっても、感動しなければならない義務は僕たちには無いし、主人公らにも無い。
 というかそもそも、作者は登場人物全てを愛しているとしか思えない。でなければここまで多種多様な人物を活き活きと描くことは難しいだろうし、あれだけの参考資料を読み込みこれほどの重厚な物語を描くのも能わないだろう。

 何よりも、松崎氏の主張である「ゴールデンカムイにはホモフォビアが通底している」が事実であれば、第7巻の巻末でこの二人にこのゼリフを言わせた理由は?この描写にはこのゲイカップルへの肯定感や愛しか感じないが、これは見落としていたのだろうか?これも読者に、ゲイを笑わせるための描写だろうか?

野田サトル「ゴールデンカムイ」Amazon Kindle版 196Pより

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 ……Twitterのツイートで引用されている各コマと画像を松崎氏自身が作成した、という前提で想定するが、アウトロー二人組のゲイカップルが最後に想いを重ねた場面を主人公に「知らんがな」で締めくくられたことに、松崎氏はショックを受けたのではないか。それでこの場面が、ホモフォビアで通底していると考えその解釈に合うよう切り抜きをした、と僕は感じた。

 そもそも「ゴールデンカムイ」は全編を通して、ホモの肯定感、男性の肉体が宿す性的魅力やその賛美に溢れている。
 
本作を読んで、ホモを笑おう、マッチョを笑おうなどと考える人はまずいないと僕は確信しているし、僕がこうしてクドクドとくだらない考察を述べる必要もなく大多数の読者は、以上述べた内容全てを読んだ瞬間に理解している。そう断言させていただく。

 創作物のバタフライ・エフェクトを恐れる心理は理解できるが、それを「東京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで竜巻が起こるんだ!」と、さも確実に起こり得ることだと喧伝するのは言論の萎縮に繋がると僕は考える。

 ごめんなさいね、みんな判ってることをグダグダと。(´・ω・`)

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