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厚底シューズ規制について、ランニング哲学的に考察してみた

NIKEの厚底シューズが競技で規制されるとかされないとか話題になっていたが、世界陸連は大規模な規制を見送ったとのこと。現行で市販されているモデルは基本OKらしい(近い将来、基準を再考することはほのめかしているけど)。このへんの話は、大手メディアも報道しているし、込み入った解説、解釈も、諸先輩方がたくさん行っている。僕としては、今回の一件というよりは、ランニング哲学の対立について考察してみたい。

厚底派 vs 薄底派(?)

規制賛成派=薄底派(厚底なんて邪道だ、ヤメロヤメロ)、規制反対派=厚底派(速さは正義だ、文句あっか!)・・・というのはあまりに単純化がすぎるとは思う。今回の規制の話は、シューズのハイテク化がいよいよ来るところまで来て、競技としてのレギュレーションを再考しなければならない時期が来たのではないか、という意味だからだ。

ただ、ランニング哲学としては、これに似たような対立が明らかにあると思う。
つまり、
ランナーは自分の身体能力だけを頼るべきで、道具にこだわるのは邪道だ、というグループ、あくまでもスポーツ、娯楽なのだから、ルールに反しない限り、良い道具を使い、結果を出し、怪我を防げるのなら何が悪いの、というグループ。ここでは便宜上、前者を「野生派」、後者を「文明派」と呼ぼう。

野生派は概ね薄底シューズを好む場合が多く(もっと極端な場合は裸足)、今回の規制騒動もおおよそ規制賛成と思っていたのではないだろうか。"Born to Run"(クリストファー マクドゥーガル著)などは、まさに野生派のバイブル的著作(良書なので、野生志向でなくてもオススメ)。マクドゥーガルによれば、「人間は走ることによって、生存競争を生き延びた」のであり、「靴を履くことはギプスで足を固めるようなもの」だからだ。
ちなみに陸連のシューズに関する規定は以下の通り。

....競技の時靴を履く目的は、足の保護安定とグランドをしっかり踏みつけるためである。しかしながら、そのような靴は、使用者に不正な利益を与えるようないかなる技術的結合も含めて、競技者に不正な付加的助力を与えるものであってはならない。(一部抜粋)

これを見ると、野生派の主張は、陸連の思想と概ね一致しているようだ。
が、この規定が作られた時代(それが何年頃なのかは調べられなかったが)、今のナイキシューズのようなスーパーシューズの登場を誰が意識していただろうか。僕が推測するに、この規約で「不正な利益を与えるようなシューズ」とは、たとえばローラースケートだったり、靴底にスプリングがくっついていたり、あるいは鉄腕アトムよろしく火を吹いて空を飛ぶようなシューズ、そんな素っ頓狂なモノを持ち込んじゃダメよ、くらいの意味だったんじゃないだろうか。もし仮に、「ハイテク素材の開発と運動工学の研究のコラボとして生まれる、ランナーの推進力をいくらか水増しするツール」というのを当時から意識して作られた文言だったとすると、最初にカーボンプレート内臓シューズが生まれたあたりで規制に動かなければ、辻褄が合わない。そこまでではなくとも、「優れたクッション性」だけでも、十分に「ランナーの助力」だと思う。

おっと。文明派に触れるのをすっかり忘れていた。が、まぁ文明派はランニング業界の「主流派」と言ってもいいと思うので、くだくだと説明しなくてもわかってもらえるような気もする。つまり、市民ランナー、エリートランナーを問わず、「快適で速く走れるシューズ(あるいは他のギア)を普通に求めているひとびと」だからだ。

野生派VS文明派の対立は、「レースで速いことと、人間として強いことはどちらが重要か」「結果とプロセス、どちらを重視するべきか」という対立にもつながっていて、そういう視点から一般化してみると、なにもランニング業界に限った話ではないと言える。なんにしても、「結果さえ出せば、なにやってもいいんだよ(見つからなきゃいいだろ)」とか「プロセスこそが全て、結果にこだわるやつはクズだ」とかは極論であり、そこまで思っているひとは少ないだろう。いわゆる原理主義に陥らないようにしたいものだ。

蛇足だが、僕は・・・?
ほぼ中間だと思うが、どちらかといえば文明派だろうか。助力だろうがなんだろうが、ルール内で使える道具は使いたいし、人間にはランニング遺伝子があることも信じてるし、ケニア人の技術もなんとかして身につけたいと思っている。うーん、長々と書いておいてなんだが、ほとんどの人は中間派なのかもしれないな。平凡な結論になってしまった(苦笑

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