創作の限界
大竹しのぶが大阪市内で行われた舞台『太鼓たたいて笛ふいて』の取材会に出席したというニュースを目にした。
彼女の芝居は覚えているだけで二つ観ている。『マクベス』と『母・肝っ玉とその子供たち』。いずれも数十年前のことだが、当時から大女優と評されていたものだ。それは今も変わらず、あるいはますます円熟していて、当時も今もトップランカーとして活躍していることが窺える。
そして、その程度のことしかできない人なのだろうということが、その記事からは窺えた。
この知事は誰が言って誰が書いたかもよくわからん大本営発表と異なり、一応は自らの顔を出して発言をしている。その発言内容が他者の証言との齟齬と乖離があることが問題なわけだし、彼自身もまた自分の言動のすべてを否定しているわけでも正当性を主張しているわけではない。それにもかかわらず「何が本当なのか分からなくなっちゃう怖さ」と言ってしまうことのほうが、僕にはよほど恐ろしい。
何が本当なのか分からないのであれば、ロシアの侵攻による戦場の様子とて、何が本当なのか分かるまい。なぜに戦場の様子が分かるのか?
自分が正しいと思うものが正しく、そうでないものは間違いだという、ある意味では人間性の根源のようなことを言っておられる。大女優の所以はここにあるのかもしれない。
ここまで好き勝手言ってきたが、僕は彼女をくさしたいわけではない。
ただ単に僕は、創作の限界を指摘したいだけなのだ。
このたび彼女が出演する『太鼓たたいて笛ふいて』は、林芙美子の戦中、戦後を描く音楽評伝劇だといい、元は井上ひさしの作だという。
戦後に転向した林芙美子はもちろん、井上ひさしもまた、反戦を軸に創作してきた人であろう。先に僕が彼女を通じて観た『母・肝っ玉とその子供たち』も、元は17世紀の三十年戦争を舞台にしたブレヒトの戯曲であり、「ナチスに批判的な演劇活動を続け、亡命生活を余儀なくされたブレヒトが、1939年、スウェーデン滞在中に執筆した」とのことで、制作当時も作品としても目的は反戦である。
ほかにも枚挙に暇がないほどの創作家が反戦を掲げ、その努力が現在に至って未だ実っていないから、いつでも世界中のどこかで戦争は行われているのだ。
僕はもはや若い人ではない。僕より若い人たちもまたこれを観たところで、それら創作物が現実世界に何の影響も及ぼすことのできなかった歴史的事実が連綿と続く劇場の外に戻っていくだけだ。
それさえ理解していないのは、演者ばかりである。
創作はブルシットジョブ(=クソどうでもいい仕事)の最たるものだ。
しかしそれをエッセンシャルワークよりも持て囃す市場原理がある限り、劇場の中は安全地帯であり続けるのだろう。
もっとも劇場もまた、形而下の産物である。いつかは崩壊していき、中にいた連中も炙り出される。僕はどこかでそれを望んでさえいる。現実世界に何ひとつよい影響を与えることのなかったものに、少なくても反戦を掲げながら反戦を実現できなかったものたちに、その代償を払わせたいと思っている。
もっともそのときその連中がどんな顔をしているのか、僕にわかることはない。
彼らのようにさえなれず、目の前のことで精一杯の僕は、そんな連中を気にかけてやるゆとりもないだろうから。
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