見出し画像

蠍戌 負けるな○○ これにあり


①長谷川櫂『小林一茶』

 読んだこともない小林一茶を、なぜだか読んでみようと思った。俳句に興味などなく、小学校の授業の一環で詠まされたかどうかという程度の僕がである。
 その程度の僕でも知っているだけの人であるせいか、掃いて捨てるほど関連本はある。『おらが春』なんて、ああなんか聞いたことあるぜって具合。その中で手に取ったのは長谷川櫂が批評した『小林一茶』(河出文庫)なる本。
 こっちはまったく知らん人だがなかなか見識があり、面白い文章を書く。ことに「日本史の時代区分はいい加減なものである。政府の所在地(平安、鎌倉、江戸など)か天皇の元号(明治、大正、昭和など)かで区分けしているが、どちらも表面的なもので、これでは時代の実態がいっこうに見えない。ここでは次のように分けてみたい。」として次のようにしているのには唸った。

・王朝時代(飛鳥、奈良、平安)隋・唐の影響
・中世(鎌倉、室町)宋・南宋の影響
・内乱時代(応仁の乱-関ヶ原の合戦)王朝・中世の破壊
・江戸前半(江戸開府-天明の大飢饉)王朝・中世の復興
・江戸後半(天明の大飢饉-幕末)大衆化=近代のはじめ
・近・現代(明治-現代)欧米の影響

長谷川櫂『小林一茶』(河出文庫)

 なるほ。大陸からの影響は無視できないということだな。やはり地政学は侮れん。和辻哲郎も(趣旨としては)そう言ってる(よね?)。


 俳句と古典文学の関係性についても学ぶものがあった。「古典文学はなぜ俳句に奥深さをもたらすか。この問題は言葉そのものの働きにさかのぼって考えなければならない。言葉にはものを指し示す働きのほかに、ものを記憶する働きがある。この二つの働きがあってはじめて言葉による表現が可能になる。そして言葉の記憶が集積したもの、それが古典なのだ。」という。前段だけでも確かにそうだわと頷かされるわけだが、具体例を次のように上げている。

 花といっただけで西行の花を思い出し、月というだけで光源氏が眺めた須磨の月を思うというのが古典の働きというものである。これが俳句に奥深さをもたらすことになる。

長谷川櫂『小林一茶』(河出文庫)

 西行はもちろん、光源氏もパラダイス銀河ぐらいしか知らないが、それを知っている人が詠む読むするからこそ、俳句なんていう字数の少ないコンテンツが脈々と続いてきているのだろう。

 まあ言い換えれば先人の功績におんぶにだっこってことだよねっと。
 所詮ゼロからは作れないってことだよねっと。

 かつての俳人をそこまで冷笑しているかどうかはさておき、「古典の素養を必要とせず、誰にでも作れ、誰にでもわかる近代俳句を作りはじめていたのが小林一茶」だというのが、長谷川の総括的な評価のようだ。


②小便の 身ぶるい笑へ きりぎりす

 本題はここからなのだが、文字どおり声を出して笑うほど面白かったのは、この句の評である。曰く「立ち小便の句である。」なんちゅう導入だ。
 この句について評者は、「いわゆる自嘲の句だが、みずからを笑うことは必然的に哀愁を伴う。そもそも立ち小便をする男の姿ほど哀愁の漂うものは無い。」と言い切っているが、ここについては大いに疑問だ。この前うちの近所で並んで談笑しながら立ち小便してた男二人連れを見かけたときは、ムカついて引っぱたきたくなったぞ。


 評者は一貫して、一茶は自分を中心にして(句を詠んで)いるという前提で解説しており、ときにその孤独をたびたび指摘しているが、これがまア僕にガチンコでハマるわキマるわ。僕さえも知覚していない僕の第六感みたいなものが、このために一茶を求めたのではないかと思うぐらい。
 そうなるとあの立ち小便男たちは、ともかくも孤独ではなかったろうな。あんな無防備で無様な姿、さる専門家に「哀愁の漂うものは無い」とまで評される姿を、笑い合って互いに見せびらかすことができるのだから。向き合ったらいいのに。
 それでも僕があの小便男たちを微塵も羨ましく思わないのは、一茶にとっての俳句のように、内なる何かに拠っているからだろう。そして彼も僕も、その孤独に耐えるための手段に縋ってしまったことにより、孤独がより深まっていったのだろう。ヘンリー・ダーガーも、多分同類だ。
 内側に何もない人のほうが、何かを求めて外側に向かっていって、かえって孤独から抜け出ていけるものなのだ。
 内側の空白を存在と誤認してしまう僕みたいな奴は、孤独から解放されるために幻を抱き締めるしかなく、それを幻と知ってなお、自分の外に向かえないでいるものなのだ。


 一茶はこの句を詠んでずっと後、結婚やら子の誕生やらそれらとの死別やら、再婚やら離縁やら再々婚やらに見舞われていくのだが、当時の彼がそれを知る由もない。彼はこの句を詠んだ頃、どんな未来を思い描いていたのだろうか。
 それを知っている僕の思い描く未来はというと、今と何も変わらず同じ道を辿っている気がしている。多分ずっと、ひとりきりで。


③すでに初老

 こちらの本で日本史の時代区分について言及されているのは先にも触れたとおりだが、年代区分についても簡潔に言及されている。曰く「42歳から56歳まで。当時の年代区分でいえば、すでに初老。」
「当時の」って前置きされても今の僕にも相当クるものがあるんでやめてくれません?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?