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結婚は一行のボオドレエルにも若かない人生の墓場

 芥川龍之介が嫌いだ。
 その理由が「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という言葉のせいだと言っても過言ではない。
 ボードレールはフランスの著名な詩人である。芥川は、人間の一生は彼の詩のほんの一行にさえ及ばないと言っているわけだ。それだけ芸術は偉大なものだとでも言いたいのだろうし、それを理解できるあるいはそれを作る自分は偉大だとでも言いたいのかもしれない。本当に不愉快な言い分だ。
「芸術は人生のためにその価値があるのであり、芸術のための人生になど価値はない」
 これが僕の言い分であり、いやしくも芸術を志向した僕であっても、ここを譲る気は全くない。


 故あって「結婚は人生の墓場」という言葉を調べたところ、元が誤訳だったとはいえ、とんだ誤解をしていたことを知った。
 これまでずっと、「結婚したら人生は終わり」のような本当に不愉快な言い分だと思っていた。だったら誰とも結婚なんてせず一人で死ぬまで生きてろボケがと思っていたのだが、そうではないという。そしてこの言葉を発したのが誰あろうボードレールだと知って、大変に驚いた。
 何でも彼がいたその頃のパリは、梅毒を筆頭にさまざまな伝染病が流行し、それによって命を落とす人が多かったという。このためにボードレールは警鐘として、「誰かれ構わずに自由恋愛するのではなく、墓のある教会で愛する唯一の人と結婚しなさい」と言ったという。
 ちなみにここでいう墓とは「愛する人と一緒に結ばれて生涯を終える場所」としての意味であり、「墓場」という意味ではないともいう。
 自分の詩の価値を、須らく人生より高位であると捉えていたとは、到底思えない誠実な発言である。
 多分ボードレールも芥川龍之介が嫌いだろう。少なくても自分や自分の創作を引き合いに出されたあの言い分に関しては。


 読者が作者の意図を正確に理解できないことは常であるが、芥川は全人類の生命存在を捧げてまで称揚したボードレールのことなど、なんら理解などできていなかったのではないか。
 芥川のいう人生が、人間の一生になど及びもつかない芸術を志向していながらそれに至ることもできず、むしろ芸術が人間の一生に劣ることにさえ思い至らなかった阿呆な自分自身のことならば、なるほど彼の人生は、ボオドレエルの詩の一行にも若かないと処断しても、無理からぬものだろう。
 そりゃ死にたくもなるわ。

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