1月9日

休み明け。
久しぶりに一日中会議がなく、仕事がサクサクと進む。
たまっていた仕事が一気に片付いていくのはとてもうれしい。
出張とか、会議とかでいかに自分の仕事の時間が無くなっているのか、
痛感する。

今日から東浩紀の「訂正する力」を読み始める。「訂正可能性の哲学」は
あまりのめりこめず、途中まで読んで放ってしまっているがこの本は、
(もちろん新書だから)読みやすい。「観光客の哲学」とか「弱いつながり」くらい読みやすい。

東浩紀「訂正する力」

そこに書かれている文章で、この本の本質には実際的には関係がないのだが、自分も同様に感じている一文がある。

つまりは、データばかり溢れているけれど、意外と総合的な体験は貧しいということです。いまはコンテンツは量的に溢れているけれど、本当のところ人々には欲求不満が溜まっている時代なのかもしれません。

P75

僕は、昔から何かを探すときに、その探す時間が長かったほど思い入れが深まる、というまあ至極当たり前のことを感じながら生きている。
それは特に音楽についていえることで、高校生のときとか、雑誌を読んだり、ディスクユニオンで毎日のように通いながら、やっとほしかったCDを
買ったりとか、MTVとかBEAT UKをただひたすら録画して、そのなかで
偶然的に運命的に好きな曲に出会えたりとか、そういう経験に基づいている。

今、長女はアレクサで、アマゾンミュージックで好き勝手に音楽を聴いている。しかし、聴く曲はいつもボーカロイドで、そこから何も広がっていない。また、ファッションに興味がある、ということはいうのだが、それについて調べたりするわけでもない。というか、SHEINで売られている範疇の服のなかに留まる。中一ってそういうもの、というのかもしれない。

しかし、少なくとも自分は中一のころは、いろいろな雑誌を読んだり、ラジオを聞いたりして自分の興味以外のものについても触れている。いろいろと触れないと、自分が何が好きなのかもわからないと思っている。

長女もそうだが、長男も、自分で何か雑誌を買ったり、自分が興味がある事柄の動向を追おうとしない。恐らく彼らには、時系列がないのだと思う。「来月には、あの漫画の最新刊が出る」とか、「あのゲームの新作がついに出る」みたいなやつが。

音楽やアニメはアーカイブとしてたくさんあって、気に入った現行のものが出てきて、来週まで焦がれるように待ちきれない、みたいなことがもし仮に出てきたとしても、その1週間の間に、アーカイブされたほかのアニメやYouTubeで埋め尽くされる。欲求と欲求の間は、すべてアーカイブで占められ、それによって欲求自体の沸点も下がっているのだという気がする。そして、そこに自分の好みのもののみが先鋭的に選ばれ、時系列が無視された「フィルターバブル」が発生している。

それによって、自分の本来の欲求には気付けていない、という気がしている。自分のころはよかった、という回顧主義ではなく、むしろ自分自身の音楽の接し方もこういう感じになっているからこそ、危険だと感じている。

データがあふれ、アーカイブ化すると、時系列とかなくなり、とにかくフラットになる。そうなると、ただたんに意味ではなく、好みのものだけを消費する下卑た悪食になっているような気がしてならない。例えば今なら、ただ単に心地よい、同じようなシティポップを気づけばずっと聞いているような感じで。これをどうすればいいのか、もっと、消費ではなく、鑑賞にしたり、選択にしたりするにはどうすればよいのか。それはおそらく、情報量を、つまり検索量を制限することに尽きるのではないか。そんなことを考えながら電車に乗りながら考え、帰ってきた。

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