1月15日キリエのうたを見に行く

今日は定時で上がり、妻に許してもらい、早稲田松竹に行く。
早稲田松竹では今週から「キリエのうた」がやっている。岩井俊二は昔からとても好きな監督で、dvdも何枚か持っている。

キリエの歌は、正直自分にとってはなかなか素直に「良い映画だったなー」という気持ちになれなかった。
この映画を岩井俊二が作った動機が見た直後はなかなか理解できていない。言いたいことは、テーマは、何なんだろうか。伝えたかっこととは、何なのだろうか、分からない。

僕が岩井俊二の映画を好きな理由は、恐らくはリアリティを保ちながらファンタジーを描けているからだと思う。もしくしは、ヒリヒリとした、リアリティ。

例えば、ラブレターやラストレター、花とアリスや、4月物語。もしくは、リリィシュシュや、ピクニック、イェンタウン。

キリエのうたは、リアリティがありそうにみせて、ほとんどなかった。設定として、ご都合主義なところがたくさんあった。それでも何かを昇華させる物語が機能していれば良いとは思うが、大きな物語は機能しておらず、誰もがルカの前を去っていって、終わってしまったように思った。もしくはルカが去った、去らせた。

誰しもが、可哀想なルカに救済を求めた。マオリも夏彦も、マオリが騙した男も、ルカといっしょに音楽をやった人も。何なら、ルカの歌を聞いた人も、その歌声に救済を求めているような気がした。となれば、ルカとはその震災後の不明な、数奇な、悲劇的な命の紡ぎ方からすれば、もはや人間ではないのか、歌そのものなのか、だから喋れないのか。ルカこそが救われる、というのが誰しもが願うストーリーで、でもそのようには見えなかった。ルカは誰も責めず、受け入れ、赦す。

そんなことを考えながら、西早稲田から家に向かう電車に揺られていた。

岩井俊二のインタビュー記事とか読んでいないから分からないけれど、ルカというのは、そしてキリエというのは、アイナ・ジ・エンドの当て書きで書かれたのかもしれないという気もした。例えば、キリエと夏彦の暑熱を含んだような境内でのシーンやホテルのシーン、地震時の下着のシーンには、とても、カメラの構え方にフェティッシュに感じた。
夏彦が大阪に行くと告げた時、怒らないキリエに、妊娠したことに戸惑いすらさせず、ただ喜びを感じさせたという、その都合の良さを押し付けたことに、僕は岩井俊二の女性への願望を感じてしまった。好きな人の子供を身ごもっているはずなのに、体を気にせずに走り回る姿に、僕は少し唖然とした。

路上主義という路上ライブで、ルカが歌うのはマーチのリズムで始まる歌だ。楽隊の先頭には、人間ではなくミューズであるルカがいる。そう言えば、フウキンもルカが青い服を切る瞬間にミューズになる、みたいなことを言っていた。やはり、ルカとは人間ではないのかも。だから、最後は誰からとも関係性を解き、一人で新しい街へ行き、誰かを救済にいったのかもしれない。マオリの死もある意味では救済だった。

そう言えば、ナウシカの服は王蟲の体液で真っ青で、ルカの衣装も青だった。

ルカがどうやって木に登って津波から逃れたのか、不明だ。二人が同じ場所にいるときに、高校生のキリエが死んで、小学校低学年のルカが助かるなんて、想像もできない。逆ならわかるが。キリスト教がテーマであるからには救済と復活と、原罪が少なからずある。

色々考えても、あまり興味深い説とも思えない。そこまでの含意があったとしても、僕にはそこに感銘するほど受け取れきれなかったのだと思う。

ただ、アイナ・ジ・エンドはとても魅力的で、心にダイレクトに届く歌声だった。それはとても分かった。岩井俊二のこの映画の動機がそれであれば、僕は完璧にノックアウトされていた。

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