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楽しみの感覚というものがあまり発達していない(5月5日)

昨日寝た時間 25時
今日起きた時間 7時

昨日は夢を見なかったように思う。ただそれは、ただ単に僕が夢を見たという記憶がないからで、本当はどうだったのか、それは分からない。
今日は朝起きて、ご飯を食べて、こたつ布団を干した。流石にこたつの出番はこれから先の季節には必要なさそうだ。今日は28度。一気に初夏の様相となってきている。日差しが痛い。くらくらする。その後、皿洗いと風呂洗い。

今日は休日なんだが、どうしても明日までに仕上げなくてはならない仕事があり、仕方なく仕事をする。最近、PCの調子が悪くてpremier proで動画作成をしているとかくついたり、再生が前後に揺れるときが増えてきている。今日は書き出しの途中でなんどもPCがダウンしてしまい、明日までに動画作成をしなくてはならず、慌てる。スマートフォンで原因を探っていると、放熱がうまくいっていない可能性に突き当たり、PCを手でもって通気を良くすると無事に書き出しができた。ほっとする。お昼はスパゲッティだった。僕が仕事をしている間、妻は買い物にでかけ、子供たちはゲームをしていた。長女はあと少しでデルタルーンのチャプター2が終わりそう、とのこと。

子供がいることは、幸せなこと。恐らくその通り。ただ、子供がいると自分の時間などほとんどない。特にGWの様なときに、それを痛感する。本を読むことも、音楽を聴くことも、映画を見ることも、何かを作ることも、できない。一人で集中する、ということが子供と同じ時間帯ではできない。それは、正直に、素直に、僕にはつらいことだ。千葉雅也「現代思想入門」を先日読み終えた。ここには僕の姿勢を立て直す必要性が多く書かれていたように思う。僕は、中学生くらいから「自分ってなんなんだろう」という問いに取りつかれ、以降は「考える」「悩む」ことが通常となり、それに依存してきたのだと思う。そして、「ナウシカ」によって「苦悩の深さが人間の価値だ」という価値観を肯定され、深まり、また、もともとの性質として規範になびきやすいことから、規範の規範性に取り込まれがちだったので、独善的な性格を形成してしまったように思う。この本に書かれていたことのひとつは、反省を引きづることはない、ということや、現在の事象を生きる、ということだった。僕は楽しんでいきたい、と願いながら楽しむことが何なのか、どの様なことが楽しいのか、楽しみの感覚というものがあまり発達していない。むしろ、楽しそうな人を軽薄として感じがちで、知的な人が楽しそうな人を肯定的に表することを通して「楽しいことでいいんだ」とやっと理解できた節がある。それくらいに、「苦悩の深さ」が重要だと思って生きてきた。軽薄さや、浅薄さ、底の浅い感じ、思慮の足りない感じ、深く考えずに安易に発言すること、調べずにパワフルで分かりやすい説明をそのままに信じること、そういうことを半ば嫌悪していた、とも思う。ただ、まあ、正直に、「苦悩の深さ」が何を齎すのか、と言えば、ただたんに次の苦悩を齎すだけなのではないか。もしくは、無気力、アパシー(考えても、何も解決なんてできないのでは?)、そういうもののような気がする。だから、僕は最近は「楽しい」ものにシフトしたい、と頑張っている。頑張っている時点でだめだと思うけど。ただ良かったと思うことは、自分の暗さがベースにあること/構築したことの上に、楽しさを求めようとしていることで、多分始めから楽しいことだけを求めていたら、その照準はあまりしっかりとは合わなかったような気がする。

千葉雅也「現代思想入門」には、脱構築のことが鮮明に書かれている。脱構築の一つの大きな要素は、二項対立に陥らないことだった。僕は、色々なことに戸惑っている。例えば、データの見方一つで、何を主張するのか/できるのか、は全く異なるので、ワンサイドな主張を見たときには単純には肯定も否定もできない、という保留と留保をする。もしくは、ツイッターでフェミニストに関して、最近だと宮台真司のやり取りについて、僕自身の考えはあるけど、一連のやり取りを見ていると、問題の対称性や前提がずれているままに話が進む時が見えるが、僕はその時も、何が問題視されているのか、を考えたいと思う(僕は宮台先生の言っていることは恐らく1割も理解できていないですが、宮台先生のファンです)。考えて、想像することが大切だと信じている。それは子育てでもそうだと思う。彼女・彼は、自分とは同じ人間でもないし、自分の所有物でもない。親は何も決められない。

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