5.春には田上山を全山アヤなす
大津市南部では、コバノミツバツツジのことをアヤと呼び、「春には田上山を全山アヤなす」と使います。田上山は、太神山 600m、矢筈ヶ岳 562m、笹間ヶ岳 433m、堂山 384mの4峰の総称です。奈良の都の造営にスギ、ヒノキの巨木を伐り出して以降、第2話でお伝えした我が家周辺と同様に、花崗岩の山が千年かけて荒れて、江戸時代にははげ山になりました。明治時代の砂防工事による緑化で、アカマツ林が再生して、全山紅紫に染まった山です。太神山山頂の不動寺には、伐られなかった大杉が今も残されています。
アヤの漢字は、綾(綾絹織)だと思いますが、彩(いろどり)、絢(絢爛)、綺(綺麗)、紋(紋様)、文(文様)、章(しるし)なども該当して、女の子の名前にも良く使われる美しさを表す文字ばかりです。アヤは、絹を紅花で染めた彩のたとえですね。とにかく、田上山の春は、美しかったのです。
著者は、小学校時代に、父に連れられて、この田上山によく山遊びに行きました。ここで良く目についたのが「山つつじ」です。幼児期にはツツジという言葉は知っていて、京都では蹴上浄水場が植え込まれたツツジの名所だと理解していました。これに対して、山で自生しているツツジはすべて「山つつじ」だと父に教わりました。ちなみに、ツツジに似ているけれども6月に咲く赤い花はサツキだとも、小学生のときには理解していました。
全体タイトルにも使っている原風景とは、奥野健夫が1972年の『文学における原風景』で生み出した言葉です。以後原風景は、文学はもとより、一般の人々から、幅広い学問分野の専門家にまでも拡がって使われました。単に懐かしい故郷の風景という幅広い意味で使われることが多いですが、文学的に記されている奥野の書を読み解けば、原風景とは、第1は都会にも残されていた原っぱや秘密基地などのように幼少期のお気に入りの遊び場の風景であり、第2は青年期の異性との出会いの中で喜怒哀楽を感じた場所の風景です。
著者の場合の「原風景その1(小学生時代)」は、取り壊された京町家の空き地、お祭りで夜店が並ぶ社寺境内、ゴリ(カワヨシノボリ)を捕った夏場の鴨川、春や秋の日曜によく父に連れて行ってもらったハエジャコ(オイカワ)釣りをした高槻の芥川上流と、この田上山でした。
芥川沿いもですが、田上山は「山つつじ」の宝庫でした。コバノミツバツツジが多く、ときにモチツツジ、標準和名のヤマツツジも少しは見たと思います。お弁当を持って花崗岩の岩肌が多い開けた田上山に登り、庭に持ち帰る水苔をいただいたり、澄んだ川で水を飲み、水遊びをしました。今日では、水苔は持ち帰らないでください。水も飲まないでください。父も幼いころから、こういった山遊びをしていたのだと思います。
水苔が生えて松葉が落ちる場所で、コバノミツバツツジの1mmの小さな種は発芽して、成長します。
田上山の山腹砂防は、1878(明治11)年に内務省の直轄砂防事業として始まり、1980年代まで百年以上続きました。下流の淀川流域では、1868(明治元)年に発生した大洪水で大きな被害が出ました。鉄道のなかった当時のこと、京都の南の入口である伏見港を繋ぐ舟運路と大阪港は、土砂で埋まりました。これに対して、明治政府は1872(明治5)年から、ファン・ドールンを始めとするオランダ人水工土木技師を、お雇い外国人として招きます。オランダ人技師は、まず淀川の河川改修の計画・設計を始めますが、土砂流入の根本を断つためにはげ山の砂防に取り掛かりました。明治8年からは、京都府の木津川流域の不動川で、砂防堰堤を造ります。そして瀬田川流域の田上山に、砂防事業を拡げたのです。ドイツの私費留学から戻った内務省技師の田辺義三郎は、堂山の鎧堰堤を設計しました。
この下流には、コンクリート製ですが、表面に鎧堰堤と同じデザインの切り石を階段状に張りつけた迎不動堰堤が、2000年に築かれています。堰堤は渓流砂防だが、山全体は山腹砂防の事業です。安田勇次によれば、何度も失敗して、6回も植栽が繰り替えされた場所もあるとのことです。
現在、新名神の工事が進み、北側の山麓が大規模に削られています。自然破壊だと嘆く人もいますが、今日の緑化技術を使えば、10年程で緑が戻るでしょう。このとき、コバノミツバツツジが高速道路沿いを染めるはずです。千年かかってはげ山になったあと、百年かかって緑の山に戻り、十年ほどの工事ではげ山ができたが、十年ほどで戻るでしょう。
著者の専門は、景観であり、そのための地図活用です。わかりやすい案内地図をつくり、こういった自然や歴史の記事を書いた場所を巡るガイドブックをつくりたいと思ってます。読者の皆様の、ご意見をお待ちしています。
参考文献
奥野健夫『文学における原風景』1972 集英社