鉄緑会に6年通ったが浪人して早慶未満の大学に進学した話。

新宿に来ると今でも鬱々とした気持ちになる。ここは私の人生選択の失敗の記憶が詰まった場所だ。


小学生時代、私は決して模範的な受験生ではなかったが、早熟なこともあり成績はそこそこ良かった。第一志望は自分の持ち偏差値より10ポイント弱高いチャレンジ校。鉄緑会の指定校である。そんな学校に受かったのだ。慢心しないわけがない。間違った成功体験は私や私の母を狂わせた。青いファイルに入った「合格おめでとう 次は東大!!」と書かれた紙を見るなり母は迷わず入会手続きをした。

鉄緑会は高1の12月までは英数(数学は1A2Bまで)の授業しかない。高1の1月から化学と数3、高2から物理が始まる。

英語は中1の始めから躓いてしまい鉄緑会の校内偏差値で常に50を切っていたが、数学は校内偏差値55ほどあったように思う。高1までは。

鉄緑会は進度が速いと言うが、とはいえ高1までは大学受験数学における基礎であり、いわゆる共通テストレベル。校内模試も小問集合の割合が高い。しかし高2から格段にレベルが上がる。高2の終わりまでに英数(1A2Bまで)は東大合格レベルまで仕上げるというのがコンセプトらしい。
高1の時点で英語の校内偏差値が40さえ届かなくなった私は英語のみ他塾に移籍している。私が「英語だけは転塾したい」と言った時に母は失望したような顔をした。その顔を見て「数学はちゃんと成績を保って東大に行かなきゃいけない」というプレッシャーを感じていた。

そんな思いを抱えながら高校2年生になったが、感染症の流行で外出自粛を余儀なくされる。確か5月くらいまでは鉄緑会も新しく入った塾も完全オンライン授業だった。映像授業を見て宿題もやっていたが、勉強を塾に管理されないことが人生で初めてだったので今思えばきちんとこなせていなかったのかもしれない。
6月頃から対面授業も始まった。そして夏の校内模試。数学(1A2Bまで)偏差値40である。いきなり偏差値が15ポイント落ちた。焦らないはずがない。このままでは東大にいけない。小さい頃から算数は得意で数学もずっと得意科目だったはずなのに。もう物理も化学も数3もやってる場合ではない。今回は映像授業のせいで悪かっただけ。1A2Bはやれば出来るはず。だって今までどんなに調子が悪くても偏差値50は切ったことがなかったから。完全に原因の分析を誤った。基礎を固めて応用に進む際、通常は1問ずつ『考え方』を理解することで応用力を身につけていくと思うが、鉄緑会の優秀な人間はそれを感覚でやっていることが多く、応用問題を基本問題かのように解くため、平凡な私は勘違いをして基礎を学習する際と同様に暗記ベースでやってしまっていた。
そのミスに気づけぬままただただ時間は流れ、12月。高2最後の校内模試。通称クリスマス模試である。この模試の結果により高3のクラスが最上位、上位半分、下位半分に分けられる。数学だけは上位半分に入りたい。そうどれだけ願おうと現実は思う通りになどいかない。数学偏差値40。1A2Bの応用力がついておらず数3は勉強していない。今思えば当たり前の結果である。しかし私はここまで気づけていなかったのだ。私は鉄緑会の授業に得意だったはずの数学すら完全に付いていけてない。絶望した。でももう今更塾を変えるなんてできない。中学受験だって小4から3年間かけてやったわけだし今更リスタートなんて浪人確定じゃないか。何しろ鉄緑会にもう5年も通っている。その教育課金が全て水の泡になってしまうような提案などできない。母の失望するような顔を見たくない。高1まで数学の偏差値は55ほどあったわけだし、きっとこのまま頑張れば東大は無理でも東工大くらいなら行けるだろう。

高3、1学期。数学は1A2Bと数3がひとつの授業になり実践レベルの演習メイン。物化は基礎をおさらいしつつ演習をする。
高2数学で完全に置いていかれた私は実践演習が全く解けなかった。数学の授業に行く度に募る希死念慮。数学が出来ない絶望は他の科目を勉強しようという気力さえ奪っていった。
そして高3後期、いつしか私はもう完全に鉄緑会に行けなくなっていた。電車で新宿駅まで行ってみても電車を降りれない。涙だって出る。中学1年生からこんなに教育に課金された結末が、いや、小4から課金された結末がこれだなんて。早慶も行けないし、理科大やMARCHだって厳しいだろう。つい今日知ったばかりの大学に受からない可能性が高い。だってもう12月なのに理科が何ひとつわからないのだから。これからどうしよう。出身中高の偏差値とこれまでの教育課金に見合う学歴を得られないのならば死んでしまった方がましなのか?いや、死んだらそれこそ課金がすべて無駄になるのではないか?日々死なない言い訳を探す以外何も出来なかった。
そして間も無く年が明ける。この時点では母に浪人は絶対だめと言われていたので、MARCH未満の大学まで出願した。全て個別試験である。今思えば共通テスト利用なら受かった学校もあったが、共通テスト利用は全て難しいと思い込んでいたこと含め情弱だった自分の責任なので仕方がない。

全落ちである。

かなり偏差値的に譲歩したつもりだったが全落ちした。

母は完全に私に失望したようだった。しかしここまでくると逆に吹っ切れた。偏差値の高くない大学にも落ち母からの期待は一切なくなったことで身が軽くなったように感じた。もちろん教育課金額に見合わない人生を歩んでしまっていることで希死念慮を感じることも多々あったが、それでも、来年どこの大学に入ろうと、自分自身が成長できることが確定しているという現実は希望に満ち溢れていた。

3月には大学受験のシステムをたくさん調べた。世の中にはたくさん大学があり、どこの大学に行ってもそれなりに就職できる。偏差値60は十分高い。「1年しかない」は大間違い。まだ1年近くある。入試方式もたくさんある。総合型選抜は浪人でも出願して良いらしいけど、まぁ私は募集要件満たしてないから無理かな。
とにかくたくさん調べた。

塞ぎ込むにはまだ早いのだ。

4月からは駿台予備学校に入った。下位クラスになり母からの視線は痛かったが、「昨日の自分より少しでも成長できてるなら良い」という気持ちを持ち基礎から勉強した。駿台の担任は優しかった。面談に遅刻してしまったときも「そういう日もあるよね」と受け流してくれた。夏の模試がほぼE判定だった時も、偏差値が上がっている科目だけに注目し褒めてくれた。下位クラスだから世間的に有名な講師の方にはあまり習っていなかったが、いちばん基礎的なところから質問に行っても否定せずいつも丁寧に教えてくれる方ばかりで居心地が良かった。

1年浪人しても結局第一志望には受からなかったが、それでも前年度に落ちた大学よりも偏差値の高い大学に合格することができた。教育課金額には見合わない大学だが、受かった時は人生でいちばん嬉しかった。正直第一志望の中学に受かった時より嬉しかったと思う。


浪人した理由を聞かれたら「高校時代勉強してなかったから」と言ってしまう。「鉄緑行ってたけどやる気なくてさぼってた」と言ってしまう。
吹っ切れたつもりでいるがあの時の後悔は今もまだ消えない。でもあの時よりはましな日々をおくれている、そう思うだけで今日も生きていける。
希死念慮を覚えることも随分減った。
いつか新宿に来ても何も思わなくなる日が来るだろう。



さいごに
鉄緑会は学力的についていける分はとても良い塾です。他校の友達も出来るし、講師は生徒の通ってる中高の先輩であり大学生なので半分友達みたいなノリです。講師が旅行に行けばお土産を生徒に配ってくれるし、バレンタインやホワイトデーには講師含めみんなでお菓子交換することもありました。質問も(ちゃんと塾の学習レベルに合ったものなら)気軽に出来ます。教材も良いです。特に『確認シリーズ』という基礎レベルの教材は教科書と問題集が全分野まとまったようなものなので浪人時代も重宝しました。たぶん他の教材も東大受験生にはすごく良いものかと思われます。
鉄緑会はとても良い塾ですが、偏差値50未満を取り、その原因がケアレスミスを多発したとかでもなかったのなら、すぐやめるべきです。身の丈にあった努力で身の丈にあった素敵な人生を過ごすのがいちばんです。


おすすめ
DISH//『沈丁花』という曲を受験期何度も聴いては泣いていました。「平凡でごめんよ母さん」という言葉がどうにも刺さってしまって。浪人時「昨日の自分より少しでも成長できてるなら良い」という思考ができるようになったのはこの曲のおかげです。
半年ぶりに聴いたらまた同じところで涙が出てきてしまい、つい長々と文章を打ってしまいました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?