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ばんえい競馬、能力テストの蹴り問題について 1

はじめまして。笹谷遼平と申します。映画を作っています。2019年末、北日本における馬文化のドキュメンタリー映画「馬ありて」を公開しました(現在Amazon、アジアンドキュメンタリーズ、U-NEXTほか様々な媒体で有料配信中)。本作品では2013年から北海道帯広市のばんえい競馬、穂別町のポニーレース、岩手県遠野市の馬搬(伐採された木を馬で運ぶ仕事)などを取材しました。

今、ばんえい競馬の能力テストのレース中に、騎手が馬の顔を蹴ったことが虐待ではないかと、大きく話題になっています。その議論がいい方向に向かっていない気がしているので、ここに私見を記したいと思います。批判を恐れず申し上げると、ネットリンチの様相を呈しています。ただ、前提として、私は「蹴る」という行為を肯定しているわけではありません。しかし、「蹴る」行為の背景に、あらゆることが絡み合っていることを一人でも多くの人に知ってもらいたいと思い、ここに記したいと思います。競馬場の監視カメラを増やすことに、あまり価値を見出せません。

私は主に、今回の議論に関し、次の3つの点に違和感を感じています。これらはあくまで、かつてばんえい競馬に出入りし、1頭の馬が能力テストを受けるまでを取材した、いち部外者・私の主観です。

1、まず蹴る瞬間のみにフォーカスされていること

蹴る瞬間の映像は、誰が見ても気持ちのいいものではありません。しかし、動機や状況ではなく、その行為のみが切り取られ批判が集まることに違和感を覚えています。騎手は蹴るまでに、あらゆる手を尽くして馬を起こそうと、再び走らせようと手を尽くしています。また、息が荒い状態で地面に鼻を付けることは窒息のリスクを伴います。そうした物理的要因も考慮すべきです。

2、能力テストのシステムに対する言及が少ないこと

どの程度の報道があるか分かりかねますが、ばんえい競馬は能力テストに合格した馬のみがレースに出走できるシステムです。逆に、合格できない馬はかなり高い確率で食肉用の馬として九州に出荷され、そこで約一年間肥育され、肉になります。九州の馬肉のほとんどが北海道原産なのです。

つまり、合格しなければその馬は肉になる可能性が高い。若馬にとっては生きるか死ぬかの分かれ道です。

3、大きな馬を扱うことの困難さに対する言及が少ないこと

先ほど鼻を地面につけると窒息のリスクが・・・と記しましたが、物理的要因はまだあります。それは体長約2m、体重800キロ以上もの重種馬の顔を起こそうとすると、人間の引っ張る力ではもはやどうしようもありません。刺激を与えて起こす方法が合理的です。

また、あの状況では能力テストのレースは終わっているように見えますが、次回以降の能力テストに再度挑戦することも可能です。ゴールに近づくこと(またはその行為を覚えること)はあの若馬にとって、大変大切なことです。

そしてここから記すことが、私が最も重要に思っていることです。それは「蹴る」という行為が残酷だという人間基準の価値観に終始し、他の意見を寄せ付けないきらいがあるということです。「正義」が聞く耳を持たずに問題解決への道筋を阻害しているように見えるのです。

重種馬の調教、レースは私たち一般の人間が想像している以上に、はるかに過酷で、人間も命懸けです。どんなに慣れた調教師、厩務員の方でも、しばしば馬に蹴られて大怪我をします。凄まじい力なので打ちどころが悪ければ死に至ります。小型犬とじゃれつくような気構えでは立ち向かえません。本当に危険な仕事なのです。
馬は頭がよく、人間の3歳くらいの知能を持っていると言われ、常に人間のことを見ています。「この人間には従うべきなのか、自分より下なのか」と。馬が人間を自分より下に見ると、調教、レースどころではなくなります。

もちろん馬を愛することも必要です。しかし同時に気迫、厳しさも必要なのです。ヨシヨシと可愛がるだけの調教では数百キロの重りをつけて坂を上がることは難しいです。レースでは、馬はいつも以上の力を発揮しなければいけません。騎手は気迫と共に合理的に馬の力を120%引き出さなければいけません。とてつもない緊張感なのです。しかも目に見える形で成績を求められます。騎手、調教師、厩務員、そして馬。繰り返しますが危険な仕事です。誰も楽をしていません。

愛すること、可愛がることはある意味簡単です。しかし残念ながらばんえい競馬ではそれだけで調教は成立しません。

何より、私たちは常に何かを「転嫁」して生きています。日々食べている肉も、誰かが屠殺し、解体したものです。その行為は残酷でしょうか。もしくは見えないフリをしているだけかもしれません。今回のことは現場の過酷さが少し表出したに過ぎないと私は考えています。問題があるとすれば、娯楽のために馬、競馬場にこのような過酷さを強いるシステムではないでしょうか。全ての競馬を楽しむ人が関わる根本的な問題です。

ばんえい競馬には、明治初期に北海道を馬と共に開拓した人間の営みが詰まっています。かつての馬と人間の関係は、一言で言えるものではありません。家族以上のものでした。そしてばんえい競馬はその名残りを現代に伝えています。
私はばんえい競馬が好きです。だからこそ、馬の顔を蹴っているのは、騎手ではなく楽しんでいる私自身のようにも思うのです。
ばんえい競馬が馬にとって過酷すぎるなら、北海道で生まれる重種馬たち、レースに出走できない馬たち、レースを走り終えた馬たちに安寧の環境、受け皿が欲しいと、私は願います。しかし馬は人間にとってあくまで経済動物で、それが思った通りに叶えられないことも知っています。

議論は既に始まっています。競馬から引退した馬(ばんえい馬でなくサラブレッド)のその後のあり方を丹念に取材した「今日もどこかで馬は生まれる」という映画が、拙作「馬ありて」と同時期に公開されました。これをきっかけに引退馬がどのような余生を過ごせるのかという議論が活発になっています。

ばんえい競馬にも、北海道の馬文化を伝えながら馬たち、競馬場で働く方々の過酷さが少しでも軽減できるようなシステム作り、議論が始まることを祈ってやみません。

次回は馬と人間の関係について記したいと思います。

拙文を最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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