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日記('22.9.9)

髪を切った。

と、わざわざ報告するほど空前の短さになったわけではないし、生まれてこのかた手つかずの髪色がついに開拓されたわけでもない。髪を乾かすのに時間がかかるようになってきたし、耳の上あたりの中途半端な長さの部分が、前にやるにも後ろにやるにも落ち着かなくて鬱陶しいので切ることにした。

少し前まで通っていた美容室がしれっと値上がりしていたので、先月だかその前の月あたりから、家からの距離がほとんど変わらない、前よりも安く、現金を持っていく必要もないところに行っている。怪しいマッサージ店の看板があるビルの中の、それでいて店内がやたらと広く開放的で、女性客ばかりいるようなその店はあまり居心地は良くないのだが、金のためなら月に1度くらいは我慢してやってもいい。

ドアを開けると、30半ばくらいの男性スタッフに爽やかに出迎えられる。名前を伝えて、彼にそのまま席まで案内される。
いつも美容師の指名はしない。凝った髪型にするわけでもなし、誰が切っても大した違いはないのだし、店を出れば顔も名前も忘れてしまうのだから指名のしようがない。だから、ああ今日はこの人か、明るい人のようだし今日は当たりかな、と思う。

エプロンをかけられ(あれはカットケープというらしい)、今日はどうしますかと聞かれたところで彼に異変が起きる。

暗いのだ。

入店時の快活な声と接客スマイルはどこへやら、休日の朝6時の電話に出たときのようなテンションでぼそぼそと喋る。何センチくらい切りますか、襟足はどうしますか、梳きますか、と、仏頂面で心底楽しくなさそうに聞くのだ。美容師が全員陽の人間であるべきというわけではない。きっとそうだろうと思っていたこちらにも多少の非はある。それにしてもさっきの彼はどこへ行ってしまったのだ。双子の入れ替わりトリックなのか、あるいは入店時の自分が絶世の美女にでも見えたのか、そうだったら落胆させてしまって申し訳ない。しかし最初の2,3分くらいまでは我慢してくれないか。

散髪中の雑談は一切なく(それはそれでありがたいのだが)、かといって仕上がりも特に問題はなく、最後に手や服についた髪をぱたぱたとはたいて完了。イスを回してレジへ案内される。妙な人だったけど別に普通だったな、と思いながらレジの前に立つ。と、そこで「髪の毛かゆくないですか?もう一回落としましょうか?」と彼が突然にこやかに言うのだ。30分ほど前に見た男の姿がそこにあった。いかにも美容師らしい、爽やかで明るい表情の彼が。

彼はニコニコと支払いを済ませ、ドアを開けてくれ、爽やかな挨拶をした後、こちらの姿が見えなくなるまで会釈をし続けていた。手さえ振り出しそうなほどだった。狐につままれたような心持ちで帰路につく。

思うに、本当の彼は生粋の根暗なのかもしれない。入口やレジのあたりに隠しカメラが仕掛けられており、どこかの偉い人間が彼を監視していて、その評価で彼の出世や給料なんかが決まるのではあるまいか。根暗な彼は心を奮い立たせ、カメラの視線を感じながらも自らの生活のために"理想の美容師"を演じているのだ。

あるいは彼は、自分の顔を見るのをひどく嫌っているタイプなのかもしれない。鏡に映った自分の顔を見るたびに自身の容姿に絶望し、そんな自分が美容に携わることへの嫌悪感に苛まれながら、懸命に職務をこなしているのかもしれない。そして鏡から解放された彼の足取りは軽く、彼本来の明るさと優しさを取り戻すのだ。

いずれにせよ、そんな同情すべき彼の名前も顔もすっかり忘れてしまった。また彼の担当になることがラッキーなのか否かはともかく、来月もまた美容師ガチャを回すことになるのだろう。

帰り道、チクチクする首元を手で拭うと、短い髪がいくつも付く。もう一度落としてもらえばよかった。