「瞳の中のセンター」の「瞳」

 今日もなんやかんやで外出です。

 お茶の消費量がなかなか結構多いです。乾燥で喉の痛みがあると水分が欲してくる。お茶ペットが必要になりますが、結構な量を1週間で消費してしまう。普段の出勤でもお茶はよく飲みますが、在宅だけあってその量も多くなるんですね。補充のためにスーパーへ。

 スーパーへ行くと見られるのが「私が先」というような状況。通路があると塞がる様に立ってたり、我先に取りに行きたい、自分が先だと待っている。タイムセールや在庫調整で値引きしているときはその傾向が顕著になる。

 譲り合ったり群がらなくなると解消はするんですけど、我先にとなる傾向になりやすい。今の「密になる状況」を考えると、こう言うところも考えないといけない部分なのか。

 自分が先になることが求められる世界。スーパーは戦場だと言われればそれまでになっちゃいますが。相手を思いやる、誰かを気にするというというのが気薄になっての、今の混乱の状況になったのかなと。

 生きていくには一番にならないといけない。自分は主役にならないといけない。人生で主役にならないといけない。自分はセンターポジションにならないといけない。

 でも、二番になってしまう時もあるし、最下位になってしまう時もある。そういう時に、誰かが認めてくれるから自分を一位として認めてくれる。そういう見られ方をしてる人が居ないから気薄になる世の中になっているのかなとも思いつつ。

 認めてくれる家族がいる。見守ってくれる人もいる。近所に住んでる人、親戚、役場・役所の行政の人たち、民間の人たち、誰かが個人として認めてくれているから下の位置でも、人生の一番として認めてくれる。時には叱ってくれたり、指摘してくれたり。でも愛があって認められてるから言ってもらえる。

 「瞳の中のセンター」の「瞳」の存在って必要かなと感じる。

 混乱の今の世の中、落ち着いた時に、認めてくれる「瞳」の存在がいろんな人に増えれば良いな。そのことで、優しさと寛容と冷静になれる世界が再構成されるのかな。なんて、上の空な事を考える、大雨の後の夕方、差し込む陽を浴びながら。