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≪改訂版@千穐楽≫木ノ下歌舞伎「桜姫東文章」@あうるすぽっと 2023.02.12 マチネ 観劇感想(千穐楽編)

木ノ下歌舞伎「桜姫東文章」東京公演千穐楽当日になって、新たな気付きや新たな違和感が生まれました。前楽にも同様のことがあったのですが、そちらは先に別記事を書きましたので、こちらの記事では東京公演千穐楽を拝見して感じたことを書きたいと思います。
(観劇感想の流れとしては下記2つの記事を先に御一読頂けますと何を言ってるのかな~ということが伝わりやすいかな?と思いますので宜しければ)

↓ こちらは、2月2日の初日感想。演出が変わる前の初見の感想です。


↓ こちらは、2月11日ソワレ(前楽)の感想。演出変更後の感想です。


公演当日、客席に配布されている公演概要抜粋だけ再掲しておきます。

木ノ下歌舞伎 2023年「桜姫東文章」キャスト表

大向こう(大向う)の御名前も併記しておきますね。(キャスト表順)
成河さん=イナゲヤ
石橋さん=ベニヤ
武谷さん=豆腐屋(とうふや)
足立さん=スガキヤ
谷山さん=ブルガリア
森田さん=ダルメシアン
板橋さん=ポメラニアン
安部さん=CYOYA(チョウヤ)
石倉さん=シルヴァニア

木ノ下歌舞伎 2023年「桜姫東文章」人物相関図
(木ノ下さん自筆のものだそうですがイラストなども御上手ですよね)

上演時間
1幕:110分 幕間15分 2幕:70分  計3時間15分


はい、ここからが、公演終盤(東京公演千穐楽)の感想です。
まだツアー公演もありますし、以下の観劇感想は作品の内容に触れていますので未見の方は御注意下さい。



以下、個人の感想です。



改めまして。
今回は、こちらの2つについて書いてみたいと思います。
(1)千穐楽で感じた「新たな気付き」と「違和感」
(2)その他、こまごま、想ったこと


(1)千穐楽で感じた「新たな気付き」と「新たな違和感」


「初日」と「前楽」の観劇感想で書かせて頂きましたように、今回の岡田さん演出版にはいくつかの特徴がありました。ざっと箇条書きにすると、こんな感じでしょうか?
☆話の流れ自体は鶴屋南北の戯曲そのままかな?と思うほどスタンダード
☆劇中劇の構造をとっている
☆上演台本は現代口語
☆(私は初見でしたが)岡田さんの演出らしい身体的な動きと口調

「新たな気付き」

①劇中劇の変化
最初から劇中劇の形態はとっていらっしゃったんですが、公演の後半になってからでしょうか?上手奥のDJブースのようになっていた場所が(ミュージシャンの方の休演により)稽古場の御茶場のような雰囲気(大きなテーブルに御菓子やジュースが置いてある)に変わっていて、その場面の登場シーンがない観客役の時、その御茶場でリラックスしてるキャスト陣の姿が上演中に垣間見えたり、特に権助ですかね・・・自分の台詞を観客役のキャスト陣に語りかける印象が強くなったりして、劇中劇の「桜姫東文章」と同時に、「桜姫を演じようとしてるグループの一団」の存在感(という一面)が強くなったように感じました。
そうした印象が変わることで、例えば・・・
☆大学の演劇サークルを母体とした劇団にOBも参加して夏合宿してる
☆日本の近代史とかを研究してる人達が江戸風俗の理解の為に実演してる
など、実際に「上演を目的としない」「役者稼業の方々ではない」人達が集まって、楽しみながら「桜姫東文章」をやってみてるんだな~という雰囲気に変わってきましたよね。
言い方が難しいですが、フラットに聞こえる口調やユラユラした動きなどの岡田さん演出らしい特徴も、そうした劇中劇の前提があることで作品に馴染むといいますか、(あ~、そういうメンバーなのね~)と察する感じに。
大向うも、一通りかかった後でも、もう一声かかるまで待ってしまう「ポメラニアン」とか、面白くて。欲しがりなポメラニアンのキャラを垣間見るといいますか、松井源吾や小雛を演じてる板橋さんと板橋さんの間のポメラニアンな板橋さんが見えるようで。そういう変化が、全員に起こっていたように感じました。

②劇中劇の変化により変わった印象
木ノ下歌舞伎さんの「桜姫東文章」を観劇する(=上演を目的とした作品の観劇)というよりは、「とりあえず、手持ちのものを持ち寄って、やってみる~?」というユルイ雰囲気の中で進められる「桜姫東文章」。御互いに、「演じる」時もあれば「観てる」時もあって、互いに参加しつつ、ちょっと離れたところから作品や登場人物を見つめているような雰囲気がしたんですよね。
もし、前楽の時に感じたような「社会における自己犠牲の強要」や「近代日本の社会について考える(=実感したり、気付いたり)」為に「やってみてる」のだとしたら、それこそ芝居の原点のようなことをしている人達なんだな~と。そんなことも感じました。
技巧に走るだけが演劇ではない、という在り方、でしょうか・・・。
(いや、それを演じる方々には技巧があってのものなのは勿論ですが)


「新たな違和感」

①「都鳥」の一巻の扱いの違いと印象
初日の時は、ラストの場面で都鳥の一巻を投げたのは「桜姫」でした。
今回の上演台本が元々の鶴屋南北の戯曲にほぼのっとってるが故に、そこまでに描かれていた「桜姫(=石橋さん演じるベニヤではない)」そのものの印象が強く、また、敵討の為に仇であった夫(権助)と仇の子(自分が産んだ子)を殺害した直後の場面だった為、桜姫の行動原理が解らん・・・という違和感が強く残ってしまいました(個人的にです)。
前楽の時は、同じ場面で都鳥の一巻を投げたのは「お十」でした。
千秋楽の時も同様に「お十」が投げましたが、受け取った時のお十の体が桜姫に向けられていました(前楽の時は二人とも正面向きだったかと)。
前楽・千穐楽ともそうでしたが(体の向きなどの若干の違いはあれど)、桜姫とお十が横に並んだ状態でお十が都鳥を放り投げても、彼女自身による「自分に自己犠牲を強いた身内や社会そのものへの反逆」という意図(個人の感想です)が、ともすると、桜姫の指示だったり、共謀や結託に見えてしまいかねない、というリスクが存在しているように思えまして。
難しいですよね。
夫殺し&子殺しの場面から続いていて、かつ、桜姫は衣装のままなので、桜姫を演じていたベニヤの石橋さんと解釈するのも無理があるかなーと思うのと、場面がつながっている分、それまでの上演台本での意図と矛盾する(初日の頃と同じ違和感が存在する)んだろうなと思います。

②じゃあ、ラストの場面をどうしたら?と考えてみる
今回の上演台本にのっとった意図を第一優先として考えてみた時、前楽の観劇感想でも書かせて頂きましたが、小雛と半十郎の場面を上演したことと、終始、(やってらんねー的な雰囲気で存在していた)お十の安部さんと、途中で何度となく挟まれた自虐的な台詞などを合わせて考えてみると、「桜姫」は御家騒動の元となった要因であり自己犠牲側ではないので、虐げられてきた「お十」や「小雛(ハレルヤ!の大向うをかけている)」による身内や社会への反逆を浮かび上がらせえるのならば、桜姫とお十の二人が一緒にその場面に居ること自体が、とても難しいんですよね(誤解とか違和感を生んでしまうという意味で・・・)。
だとしたら。
一つの案としては、桜姫ではなく、ベニヤを演じていた石橋さんに戻って、お十だった安部さんと共に、現代の視点から意義を唱えるとするか?
もう一つの案としては、お十だけが残って、小雛の大向うで、騒動の大元となった都鳥を放り投げるのか?
他にも色々な方法があるのかとは思いますが、最後のこの場面の見せ方によって、この作品は真逆にもなってしまうし、そもそもの意図が伝わらなくなる可能性を孕んでいるような予感がしています。
東京公演は終わってしまいましたが、そういう意味で、私はまだスッキリとしていないというか、本当はどういう意図でこの作品を立ち上げられたのかなぁ・・・という疑問が残っています。
これから、豊橋・京都・新潟・久留米とツアー公演が続くようですが、最終形を見届けられない身としては、ちょっと残念(笑)です。



(2)その他、こまごま想ったこと


①桜姫東文章食べ比べ
鶴屋南北の「桜姫東文章」を食材に、仁左衛門さん&玉三郎さん版(歌舞伎の場合は基本的に演出家が存在せず座頭格の役者さんがそうした演出面も担います)、プルカルーテ版の「スカーレット・プリンセス」、そして木ノ下歌舞伎版の「桜姫東文章」と、本当に三者三様の「桜姫東文章」を拝見出来て、個人的にはとても楽しかったですね~。
同じ食材だからこそ、料理の差が引き立つといいますか、よくまぁ、これだけ「見えるもの」が違うものだなぁ・・・と、驚きました。

②自分が陥りやすい墓穴
自分が芝居と出会ったきっかけや、その後の御縁などがあって、どうしても自分の(感覚的な)視点が、見えたものや聴こえたもののリアリズムの方向に傾いてしまうという癖がありまして、(勝手な推測ですが)それとは真逆の方向かな?と思われる今回の木ノ下歌舞伎版を拝見することで、未だにそういう癖が強いんだなーと実感しました(苦笑)
大向うなども、タイミングとか感覚的に身に沁みついちゃってるので、そうではない(笑)タイミングに慣れるのに時間がかかっちゃったのかも(言い訳)。

③自分でもやってみたらいんじゃね?的な身近さ
実は、私自身、自分の中でモヤモヤーとした事や、考えがまとまらないことを、戯曲みたいに第三者を立てて会話仕立てにしてみることがありまして、そうすることで、身の回りの問題を自分の中からの視点から見つめるだけでなく、ちょっと離れた、他者だったり俯瞰の視点から考えることが出来たりすることがあります。
人が集まるところで、何が問題だったのか?と皆で考えてみることだったり、そもそも、自分以外の立場の人にとってはどういう事だったのか?という客観的な視点で物事を見つめ直す機会として、自分で書いてみたり、自分で演じてみたり、興行として上演することだけが演劇じゃないよね?ということを、肌感覚で感じたような体験でした。

(3)最後に

こういったところでしょうか。
上にも書きましたが、最後によって意図が変わってしまうように見える作品なので、主軸の最終形が拝見したいな~という想いが今は強いですかね。
でも、それは最初の立ち上りを拝見しているからそういう変化を感じるだけで、最終形だけが大切なわけでもなく、そうやって自分の中の疑問に気付いたり、この作品が自分にとってどういう存在なのか?と考えたりすること自体が、やっぱり「楽しい」のかな~と、今は思います。