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パ・ラパパンパン@シアターコクーン 観劇感想 2021.11.13マチネ

WOWOWさんのオンデマンド配信で拝見したのが11月10日。
その日とっても疲れていて、ゴロンと横になりながら(すみません^^;)PC画面で拝見したのですが、わぁ!楽しい♬
頭を微塵も使わなくても全部ミステリーの謎解きとして、状況も、感情も、推測も、台詞の中で説明して下さる。そして何度となく毒の無い笑いで笑わせて頂いて、疲れた体に優しい3時間!癒される~。
そう!
この癒され方は、ちょっとぬるめの御風呂にのんびり入ってる気持ち良さに近いかも。実際、配信の時は純粋に楽しいエンタメとして消費してたんだと思います、私。
そう書くと何となく言葉に棘があるかも?しれませんが、配信終了直後に公式サイトでチケットを購入して三日後には実際に劇場で舞台を観てるくらいに面白かったんです。←本当に(^^;

以下は、実際に劇場(コクーン)で舞台を拝見した時の感想です。
内容に触れていますので未見の方は御注意下さい。
また個人的な感想です。

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実際に劇場で拝見した後に、ふと思う。

演出は松尾さんだけど、毒のある笑いも無いし、このぬるま湯のような(罪もなくただ楽しく気持ちの良い)仕上がりを松尾さんが演出として創られたと思うと、それはそれでシュールにも思えて。
キャストさん達が全員揃って後方から照明に照らされると皆で歌い出す「ミュージカルあるある」はミュージカルへのオマージュなのか?それとも単なる皮肉なのか?それさえも察せなくなるくらいに頭が混乱。

小学校の道徳で出てきそうな「目標を持とう!諦めずに、よく考えて、努力し続けよう!」と作品から言われて、楽しく笑った後に、そうですね!と元気を頂くような作品。王道過ぎるくらい王道なメッセージと解りやすい笑いがいっぱい。それが今の世の中では好まれるのかな?「日々、大変な貴方に捧げる笑える応援歌」とも受け取れますしね、作品自体が。

配信の時は、それが心地良くもあり、気楽でもあり。
何なら最後にちょっと涙が滲んだ時点で(あ~、今日、疲れてるわ・・・)と自覚出来るくらいの癒し作品。
でも実際に劇場に脚を運んで客席で観た時、私の中で印象の逆転が起こったんですね。

この客席に座っている殆どの方々が、何の疑問も抱かず、全て説明されて、手取り足取り楽しませて貰っている状況に違和感も抱かず、エンタメとして消費して「あー、楽しかった」で終わるんだろうな・・・
そう想ったらカーテンコールの時、客席に居る事が寒くなったんですよね、怖いと言ってもいいかもしれません。
ここが演芸場だったら、観てるのが東京03のコントだったら、それはいいんですよね。むしろ大歓迎。でも、ここ、劇場だし、観てるの演劇だし。

全て与えられ、自分の頭で考えないでも済んでしまうことが日常化し、無思考状態が当たり前になって、疑問も抱かなくなった時。
それは社会がファシズムへと進んでいく前兆だと過去の歴史は物語っていますよね。
目の前の問題から目を逸らし、12年の年月を浪費した「てまり」さん。
その姿は、今、ここで考えることなく、ただただ楽しんでる観客達と同じじゃないですか。でも「てまり」さんは気付いたし自分で問題に立ち向かったけれど、客席のお客さん達は気付かないで帰って行ってるんじゃないのか?と想像した時の怖さ。

この作品で、そこまで考えなくてもいいのかもしれないけれど。
何でしょうね?
自分の未来を考えずに、選挙にさえ行かない若者を見るような。
この不安感。と、怖さ。
社会全体が無思考に慣れていく怖さを感じたのでしょうか。
でも、それは今回、劇場に脚を運んだから感じたものなんだと思います。
配信じゃ、そんな事は感じないので。

そういう意味では、配信だけに終わらず劇場に脚を運んで良かったのだと思います。「こう見なきゃいけない」演劇なんて無いと思うので、ただ楽しんでも良いし、何か自分の中に引っ掛かりを見つけて考えるのも、自由ですよね。

ちなみに、私の心の中に引っ掛かったのは(悪い意味じゃないですよ)
スクルージの人生。
愛する人に(お金が無くなったが故に)捨てられ、その恨みから守銭奴となり、何十年もの間、貯めた金の力で別の男と結婚した男との人生を不幸なものにしようとする残酷な一面。その反面、寒さで震える彼女をせめて暖めてあげたいと全てを暖炉にくべてしまう残されていた情愛。どちらもスクルージの中に残っていた愛する人への想いなんですよね、表と裏なだけで。それが人だなぁ・・・と感じましたし、声だけで人の多面性が伝えられる小日向さんの芝居が拝見出来てよかったなと思っています。
ただ、この作品を御覧になった御客様方がイザベルのことを身勝手な女だと思わなければいいなとも思うんです。恐らく彼女は本当の貧しさを知っているだけなんですよね?19世紀、しかも身分階級のはっきりしたイギリスで、お金のない人間が這い上がるのは容易ではないでしょうから・・・。無一文で二人の未来を語る男に社会の現実を知る女性がその計画性の無さを感じて別れても無理はないかなぁ~と思います。

「クリスマス」
それは「許し合う日」
彼女の愛を拒むことで、同時に彼女への愛を自覚することで、スクルージはやっと長年抱えてきた呪縛・・・スクルージの心に絡んでいた重い鎖を切ることが出来たのでしょうか?
「メリー・クリスマス」
その一言を彼女に贈り
「許す」ことによって。


最後に。
オープニング等、プロジェクションマッピングと言ったらいいのでしょうか?映像効果にテンション上がりました!
ワインの染みまで映像にする必要があるのか?(笑)とも思いましたが、まぁ、解りやすいですよね。(想像力不要)

あと、一つ気になったのは美術です。
2幕の割と最後の方で、3人の来訪者が種明かしされた時。
芝居の前半(フレッドが訪ねてきた時)にはかかっていた窓のカーテンですが、二人目の訪問者ベスが去って三人目訪問者イザベルが来た時、既に窓のカーテンはかかってないんですよね。その後にスクルージがちょっと待っていてくれといって一度扉を閉じる。
その後の場面で「部屋を暖める為にカーテンを燃やした(それでも足らなかったので大切な妹の油絵も燃やした)」と言っても、(いやいや、イザベルが来る前からカーテン無かったし)と観客は思ってしまうのでw、それこそプロジェクションマッピングでカーテンを描けなかったんでしょうか?
暗転しないので実際の布をかけるのは難しいのでしょうが、話の肝になる部分なだけに、暗転してでも布をかけるか、映像で何とかなさるか、して頂きたいなぁ・・・と思いました。その時に偶々上手側の席だったのですが、その窓が真正面なので、そうした矛盾が目立ちます。改善出来るものなら改善して頂きたいな・・・(いや、もう、拝見する機会は無いのですが)。


この作品だけに限ったことではないのですが。
演劇作品にはセクション毎に専門の担当者が居て、それを統括する演出家がいて、それ以外にもプロデューサーさんとか関係者の皆さんとか、演劇の仕事を生業として何十年みたいな方々が作品を仕事として作ってらっしゃるわけじゃないですか。
上記の美術の件が私の見間違いだったら申し訳ないけれど(何せ扉の奥の照明さえ当たっていない場所なので)、素人が初見で違和感を抱くような手落ち(燃やす前のカーテンが既に掛かっていない)が本当にあったのだとしたら、何故、何方も気付かないんだろう?と思うんです。
他の作品でも何度となく同じようなことがあって、これが他の業界なら医療事故とか現場での事故が起こっちゃうような手違いや見逃し・クオリティーの低下が、演劇の世界に限って言えば、観劇アンケートで「変ですよ?」って言われただけで終ってしまう。問題にもならないし、その作品が終われば座組は解散され、そうした経験が積み重なって改善されていくこともない。その甘さを、そろそろ、業界全体で自浄していこうとはならないのでしょうか?演劇界。社会における自分達の必要性を求めるならば、そうした業界自体の問題も含めて見つめ直して頂きたいなぁ・・・と、一人の観客として思っています。