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「桜の園」@PARCO劇場 観劇感想・第1弾(2023.08.07~2023.08.13)

芝居を観ることと、人をみることは、とても似てると思う。
そして、ショーンさんの演出を観ていると、とても人をみている方だなぁ・・・と感じる。それは「桜の園」の中の登場人物に対してもそうだし、日本のカンパニーの演者さん達に対しても。

自分の周りで何かが起こっているのに自分が渦中に居るがゆえに「何が起こっているのか?」が判らない時がある。そんな時、芝居を観るかのように渦中の外に視点を持って、自分や、その周りを観察してみると、とりあえず「何が起こってるのか」が何となく見えてくる時がある。問題が解決しないまでも、そのことは自分をちょっと落ち着かせてくれる。
今、自分にそういう術があったらいいな~と思ってる方々には、この「桜の園」はうってつけの作品です。

当初のMY初日は13日でしたが、作品の稽古期間中、明治大学@和泉で行われた演出家のショーンさんの講義がとても興味深くて、それまで(そうは言っても、桜の園だしなぁ・・・)と思っていたのに俄然興味が沸いて、MY初日を前倒しし公演初日の8日も拝見して参りました。
今回の「観劇感想第1弾」では、8日初日の時と13日の時の観劇感想を書いてみたいと思います。


原作:アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ
翻案@英語:サイモン・スティーヴンス
翻訳:広田敦郎
演出:ショーン・ホームズ
美術・衣装:グレイス・スマート
音楽:かみむら周平
ステージング:小野寺修二

出演(パンフレット掲載順)
原田美枝子(ラネーフスカヤ)
八嶋智人(ロパーヒン)
成河(トロフィーモフ)
安藤玉恵(ワーリャ)
川島海荷物(アーニャ)
前原滉(エピホードフ)
川上友里(シャルロッタ)
竪山隼太(ヤーシャ)
天野はな(ドゥニャーシャ)
永島敬三(浮浪者ほか)
中上さつき(招待客ほか)
市川しんぺー(ピーシチク)
松尾貴史(ガーエフ)
村井國夫(フィールス)

桜の園 人物相関図(作品公式サイトより引用)

公演期間:2023.08.07(プレビュー公演)
     2023.08.08~2023.08.29日(@東京 全22公演)
    :その他ツアー公演(宮城、広島、名古屋、大阪、高知、福岡)
上演時間:3時間(4幕構成、途中休憩20分含む)
     (1幕55分、2幕45分 <休憩> 3幕30分、4幕30分)


▼あらすじ
外はまだ凍えるように寒い5月。
領主のラネーフスカヤ(原田美枝子)が,娘のアーニャ(川島海荷)や同行していた娘の家庭教師シャルロッタ(川上友里)と共に、5年ぶりにパリから帰ってくる。帰還を喜ぶラネーフスカヤの兄ガーエフ(松尾貴史)、養女ワーリャ(安藤玉恵)、老召使フィールス(村井國夫)、管理人のエピホードフ(前原滉)、メイドのドゥニャーシャ(天野はな)や近くの地主ピーシチク(市川しんぺー)たち。留守の間に領地を任せたガーエフには経営の才はなく、ワーリャが取り仕切るも、負債は膨らむばかり。借金返済のため、銀行は8月に領地である“桜の園”を競売にかけようとしている。
“桜の園”の農夫の息子だったロパーヒン(八嶋智人)は今や実業家。彼は桜の木を切り払い、別荘地として貸し出せば、競売は避けられると助言する。しかし、美しい“桜の園”を誇りにするラネーフスカヤとガーエフは破産の危機も真剣に受け止めようとしない。
以前よりエピホードフから求婚されていたドゥニャーシャは、ラネーフスカヤに仕えてパリで暮らしていた召使ヤーシャ(竪山隼太)に惹かれるようになり、アーニャは、大学生であるトロフィーモフ(成河)が抱く新しい思想に触れて、“桜の園”の外で新しい生き方を選ぶことを考え始めていた。
競売まで一か月と迫る中、ロパーヒンはラネーフスカヤとガーエフに、領地を別荘地にして競売を避けるようにと説くが、二人は承知せず、あてにならない話にすがろうとする。
母ラネーフスカヤと共に戻ったアーニャは、同行していた家庭教師シャルロッタの無駄なおしゃべりや手品に退屈していたが、トロフィーモフが抱く新しい思想に触れて、“桜の園”の外で新しい生き方を選ぶことを考え始めていた。
“桜の園”競売の当日にもかかわらず、相変わらず呑気なラネーフスカヤたち。そこへガーエフとロパーヒンがやってきて、競売の結果を報告するのだが……。
来たるべき新しい時代を見据えて変革をいとわない人々。対して、落ちぶれてもなお、過去にすがり現実を見ようとせず時代の波に取り残される領主貴族たち。それぞれが向かう先とは……。

「桜の園」公式サイト 作品紹介「あらすじ」より引用


「桜の園」ティザー


「桜の園」ダイジェスト動画



以下、作品の内容に触れています。
未見の方は御注意下さい。
また、個人の感想です。





2023年8月8日ソワレ 公演初日 観劇感想


2023年版ショーンさん演出の「桜の園」。
「桜の園」自体は今まで何度か色々なカンパニーで観てきたので話は知っている、という作品でした。なので私の興味は、この一点に集中。
「今の日本で、『桜の園』をどう立ち上げて、どう切って見せるのか?」

初日の段階では、私には、そうした点がクリアーに直感出来なかったんですね、残念ながら。(個人の感想です)
しかし、同時に感じたのは、自分達の状況を客観視しない、そうした桜の園で生きる人達の姿が、今の日本の社会に生きる人ととても似てるかな?と思ったことでした。

当時の貴族(特に女性)は教養は学んでも、社会の変化に対応していけるような、生きる為の知識(政治・経済・数学など)は学ぶ慣習が無かったんですよね。なので、そうした「理解する為の素地」が無いラネーフスカヤに対して、いくらロパーヒンが救いの手を差し伸べても(借金返済方法を提案)話が理解出来ないし、必要性も解らない。

今の日本も、そういう国民の方が政府が操りやすかったからでしょうが、戦後の義務教育の中で、与えられたまま覚えることだけを評価し、自分の頭で考えることを教えてこなかった(=評価もしなかった)ですよね。そうした結果「桜の園」の人達と同じような「自分達が置かれた状況に気付かない人達」が大量に育ってしまったような気がするんです(自戒も込めてですが)。

作品を通して、演出のショーンさんが提示したかった事の枝葉は沢山あるんでしょうけど・・・、そのなかの一つに。
今、自分達が置かれている状況を客観視すること、その状況の問題は何なのかを自分の頭で考えること、その為の「演劇」であり「物語」だということを、伝えたかったんじゃないかな?と、初日の舞台を拝見して感じました。

舞台美術や衣装が現代だから今の自分達に繋がる、というわけではなくて。舞台の中で描かれているもの(=作品として立ち上がったもの、実)の核の部分が、今、自分達だったり、自分達が生きている社会や世界が抱える問題と重なるから「現代に繋がる『桜の園』」になり得るんだと思いますし、今回の桜の園の面白さの一つは其処にあるのかなぁ・・とも思いました。

ここまでが、8日初日のファーストインプレッションです。


2023年8月13日マチネ 観劇感想


8日初日に続き2回目の観劇。
観劇中の第一印象は、この一週間で観劇時の体感時間が随分と短くなったなぁ(驚)でした!あ、勿論、上演時間が短くなったわけじゃなくて。個人的には初日が出た感じ(すみません)でした。
テンポ感、緩急、そうしたものが良くなったからという面もあるかと思いますが、登場人物達が発してる言葉の底のある本心などが(観てる自分自身が)感じられるようになって。

ショーンさん演出2023年版の初日を拝見した時にも感じたのですが、登場人物一人一人にちゃんとスポットが当てられていて、何故、彼ら彼女らがそうしたことを言うのか、そうした行動をしてしまうのか、その人が抱えているものが言外からも察せられるように丁寧に創られていて、適切な場所に置かれているヒントを見つけて紡いでいけば「桜の園」が、ちゃんと現れるんですよね。
その中でも作品の肝になるのは女主人であるラネーフスカヤと、元小作民の子供だったロパーヒン、ロパーヒンと対比される存在の万年学生トロフィーモフかなと思います。

上記に書いたことを各人に照らしてみると。
(8日の観想と少し被りますが御容赦を・・・)

先ずはラネーフスカヤ。
彼女は自身も浪費癖と言っているけれど、それは彼女だけのせいでもなくて、帝政崩壊前後の代々続く貴族の家に生まれた女性が子供の頃から受けた教育といえば恐らく教養的なもの(語学、芸術、音楽、ダンス、手芸等)で、政治経済などの基礎を学ぶような機会は無かったでしょうし(現代の義務教育は当時は無いので)、いくらロパーヒンが借金返済方法を説明しても理解出来る素地がラネーフスカヤの中には無かったんですよね。
現代の教育システムではなく当時の状況を元に考えれば、彼女が「解らないんだもの」と言うのは聞く気が無いわけではなくて、本当に解らないだけなんじゃないかと思うんですよ。でも、無学な状況から実地で経済を学んできたロパーヒンには、そうした状況が察せられないので残念なことに二人はすれ違ってしまって・・・。

女主人として桜の園が破綻する前に、時代がどんどん変わってきていることに気付いて、自分自身も変わっていこうとすれば、手を差し伸べてくれる人(=ロパーヒン)は居たのに。居たけど、現実の危機的状況を見つめるより一人の女性として彼女は生きたかったし、仮に破綻しても誰かが助けてくれると根拠なく信じてる・・・それがラネーフスカヤという周りの人を魅了する天性のものを持って生まれた人の幸せであり不幸だったんじゃないかなと感じました。

次に、ロパーヒン。
幼少の頃から彼女に魅了されたロパーヒン。代々の百姓で、桜の園の代々の主人に所有されてきた家族。詳しくは語られないけれど、彼の父親も酔って子供(=ロパーヒン)に暴力を振るうくらいなので、父親自身も幸せではなかったのだろうし、幼少期のロパーヒンもまた(恐らく唯一の)楽しく美しい想い出がラネーフスカヤとの出会いだったことから察するに、幸せな子供時代ではなかったのだと想像しています。

そうした負の記憶の元である「桜の園」。
同時に、自分の支えのようになってきた愛するラネーフスカヤ。
彼は、周りからは金儲けにしか興味がないようなえげつない人に見られていたのかも?しれないですが、こと「桜の園」の売却問題に関しては、彼は心からラネーフスカヤの為に尽力しようとしていたよう感じるけど、その真意も手段も彼女には受け入れられないどころか理解もされなかったですよね。

もう、どうにもならない状況になって(この段階になって、後ろのフェンスの上に鉄条網が張り巡らされる)、彼はラネーフスカヤを救うことを諦め、自分の過去の記憶(代々の領主の地であった桜の園に所有された幼少時代)にピリオドを打つ為に、自分の力(財力)で桜の園を自分のものにした。彼は時代の変化の中で、人の欲望と向き合い、人を本性を知り、貨幣経済の中で生き抜く道を選んだのでしょうか。

最後に、トロフィーモフ。
人そのもの、人の欲を知っている、それがロパーヒンという人の(地に脚がついた)強さの一つなんだと思いますが、それが学生であるトロフィーモフとの決定的な「差」なんですよね。
人は思想だけでは動かない。机上の空論だけでは人は生きていけない。そのことを身に染みて知っているからでしょうか。

ロパーヒンが初期の「資本主義」の暗喩ならば、初期の「社会主義」の暗喩は学生トロフィーモフに思えて。
それまでの王政政治(帝政ロシア)が搾取してきた民衆が所有から開放され自由を得たこと、民衆の時代が来たことに明るい未来を描いている。と、同時に、トロフィーモフはあまりに理想を描き過ぎて、その実を実践していこうとはしない面もあって(故に万年学生なのでしょうか・・・)。
それもまた、人が持つ弱さの一面だと感じるトロフィーモフかと。

彼の未来がどうなるか、現実の「人」を実態として知っているロパーヒンは、トロフィーモフの思想や理想通りにはならないであろうことを予知しているけれど、二度と出会わないであろう「友」には言わないんですよね。
ロパーヒンにとって、トロフィーモフは数少ない理解者の一人だと思えたから。数少ない救いだったから。

「桜の園」を落札した後、ロパーヒンが戻ってきて、ラネーフスカヤに落札したのは自分だと告げる。
愛する(愛してた)ラネーフスカヤを傷つけ、同時に自分も傷つき、(自分を支えてきた想い出などの)大きなものを失う。同時に過去を清算する。

13日に拝見したその場面からは、一見、桜の園の主となった自分への高揚のように観える姿とは裏腹に、ロパーヒンの中の小さなお百姓さんが傷つき、心の痛みで泣きじゃくってる姿が観えるように感じられて・・・。
人には、自分の人生の中で決着をつけなきゃいけないことが起こりますよね。その時の痛みを(劇場という場所がゆえに)共に感じたのか、私の心も痛みまして、思わず泣いておりました。


上記に書いたように過去の名作と呼ばれる戯曲を紐解く時には、当時の時代(教育制度など)を鑑みて今の自分達の感覚では観ないほうがいい部分もあるし、同時に、ロパーヒンの選択のように、今を生きる私達にとっても同じようなことが起こり得ることが多々あって、それらをショーンさんの演出は丁寧に描かれたんだと思います。

13日の時点で私が一つ思ったことは。
よくよく観れば、ショーンさんが描きたかった「桜の園」は、目の前にあるんですよね。但し、その姿が観えるまで観客側もショーンさんが各所にちりばめた布石(=戯曲の核に辿り着くヒント)を見つけなきゃいけない。
それは表面的な台詞だけでなく、言葉の裏だったり、人と人の間の空気感だったり、表情や仕草だったり、それらの複合だったり、色々あります。それら(の布石)を見つけ作品の中を歩む時間は、まるで宝探しのように楽しくて。

ショーンさんが帰国された今、日本のカンパニーがこれから進む第2段階として一人の観客が望むのは。
一人でも多くの、その日、脚を運ばれた御客様が、ショーンさんが的確で丁寧に置かれていった作品の中の布石(ヒント)に気付かれて、2023年版の「桜の園」に観客が出会える、演者さん達がその為の道標となられますように、と、切に願っています。