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「検察側の証人」

世田谷パブリックシアターにて
2021年8月28日(土)~2021年9月12日(日)
2幕構成 上演時間2時間30分(休憩1回含む)

前置きしておきますが、出演者さんに関してや劇中のレポートそしてカーテンコールでの様子などには一切触れていません。アガサ・クリスティーの原作と今回上演された舞台について感じたことを備忘録的にまとめただけです。観劇感想にもなっていません(^^;


大学に入った頃。その大学が中央線の西の方にありまして、家は東の方にあったものですから、中央線に乗ってる時間だけで片道小一時間あったんですね。往復約2時間。読みやすい文庫本なら一冊読めちゃうような時間です。今のようにスマホもないし、通学時間が退屈なのもなんなので(クラスメイトは皆、地方から上京してきているので、通学してるのは私を入れて二名だけだったんですよね)、何となく文庫本片手に通うようになりました。
その中で始めたのが、一人の作家の作品を片っ端から読むこと。池波正太郎さんから始まり、藤沢正平さん、司馬遼太郎さん・・・そのあと近辺の作家を読んだりした後に読んだのがコナン・ドイルとアガサ・クリスティーでした。子供の頃に読んだものも中にはあったけれど、少し大人になってから読み返してみるのも面白いもので。古典でもないし、現代作家でもない、大物?笑の一陣を制覇する感じでしょうか。

今回の上演にあたり(既に話は知っているので)観劇前に原作を読み返してみました。そうそう、こういう話。その時点で既に配役も発表されていましたし殆どのキャストさんは他の作品で拝見させて頂いた方々だったので、あ~似合うだろうなぁ~~なんて思いながら初見の日を待ちました。

世田谷の公演の中で何度か拝見させて頂いたのですが、個人的な印象では、舞台として全体的に「原作を知らない観客にも解りやすく」演出されたのかな?と感じました。それは演者さんの表現に関しても。何となく察せられる・・・ではなく、歌舞伎のツケ打ちのように(ほら、ここを観て!)という吹き出しが見えるかのような芝居としての誇張も多かったような。こういうのは好みの話かとは思うのですが、個人的には、そうしたものが苦手でして。(解ってるから、もう少し放っておいてよ)と思う感じでしょうか。もう少し観客を信用してくれてもいいのに・・・と思ったりもしました。

ただ、それは。
私はそもそも原作を読んでるし、時代として東西冷戦を肌感覚で知ってる世代だから、という側面もあるんですよね。
今回の客層は多くは十代の女性。世界史の教科書では東西冷戦を習っているかと思うけれど、そうした歴史の中で当時、社会の中にどのような差別を生んでいたのか、当時の女性達がどのような立場に置かれていたのか、そこまで感覚的に知ってる世代ではないので、その為のフォローだったのかな?とは思います。

今回の上演台本では、現代口語に近づけた台詞に書き換えられていますけれど舞台の背景になった時代性とか当時の状況については原作のままになっているので、その点は「知ってる」ものとして話が最初からスタートしてるんですよね。「知ってる」からこそ、ローマインが何故、自分のような東から来た人間に対して西の人々が抱いている先入観を利用してレナードを守ろうとしたのかが腑に落ちるんだと思いますけれど、その辺りが現代口語と共にちゃんと東西冷戦を知らない世代に伝わっていたらいいなぁ・・・と要らぬ心配をしたりも致しました。

ウィルフリットとマイアーズの対比も派手め?に表現されていたような。
お人よし三人組の筆頭、弁護側のウィルフリット。
人を観る目が本当に無さそうなんだけど、善良というか、人柄の良さが基本にあって、陪審員もまたウィルフリットの善良そうな人柄にほだされて(彼があそこまで無実を信じているなら無実に違いない)と傾きやすい方に見えました。

対して、検察側のマイアーズ。
ちょっと神経質で、完璧主義っぽい印象なのでしょうか。
自分の信念や直感を信じて突き進むようなタイプ。弁論もまた自分の主義主張を押し通す・・・感じなんだけれども時によりそれが空回りしてしまう。

ウィルフリットの善良さがにじみ出た弁論の上手さ(陪審員を味方につけやすいという意味で、ですが)と、マイアーズの直観力が合わさったら最強の弁護人&検察官になれると思うのですが(^^;

その二人が対峙するローマイン。彼女は元女優。演じることなど御手の物です。そして、とても聡明で意志の強い女性なんですよね。そして心からレナードを愛していた・・・
当時、東からきた人間というだけで、西の社会の中では信用されなかったのでしょうし、ましてや女性に現代のような自由があったわけじゃないので(就ける仕事も限られていたし資産家の娘でもない限り自活していける道は少なかった)、彼女にとってレナードがどれだけ大切な存在だったのか、この辺りは時代を知ってるが故の肌感覚みたいな世界なんですよね。
彼女は、レナードを守る為に、自分の身を犠牲にして一芝居を打った。ウィルフリットやマイアーズは、そんな彼女の策略に騙された。百戦錬磨の弁護人&検察官を手玉に取る程、彼女は聡明だということなのですが、その彼女でさえ、レナードとの愛が永遠に続くと信じて疑わなかったんですよね。

「法」というものが持つ絶対的な印象とは裏腹に、実際には情状酌量が代表的な例ですが多分に感情的な面で判決が変わってしまう面もあるんですよね。

それ以前に、後頭部を撲殺されているのに、実際の凶器について、弁護側も検察側も一切追及しない。検察医まで出頭しているのに。どうでもいいような、窓ガラスの破片が外に落ちてたか室内に落ちてたかを争ったり、ハムを切ってもそこに怪我はしないだろう・・・と思われるような傷跡や血痕が物証として取り上げられたり、何とも御粗末な法廷でのやりとりが続くんですよね。それこそ、実際にはありえないほど、間が抜けた裁判なんです。

そこから勝手に想像した範囲ですが、この作品はアガサ・クリスティーからの痛烈な皮肉なんじゃないかなぁ・・・って感じるんですね。当時の司法そのものや司法に携わる人達の危うさ、社会に蔓延る偏見や差別、女性というだけで生きにくい現実に対しての。
だからこそ、現代の感覚で舞台を観てしまうとアガサの皮肉もローマインの悲劇も実感として伝わりにくいんじゃないかなぁ・・・と思いました。どこまで説明しなきゃいけないのか、難しい判断ですよね。説明し過ぎることで失ってしまう面もあるので。今後もこのような側面が生じるのなら、作品としてどう立ち上げるのか、その段階からの検討が必要になるのかもしれませんね。